『伊勢物語相補論』の正誤表


単著専門書『伊勢物語相補論』には訂正すべき箇所があるので、報告しておきます。失礼しました。 なお、61・66頁の誤りに関しては、とりわけ説明を要するため、「旧稿の訂正と補足」を書きました(32・218頁の誤りにも触れています)。 ご参照ください。

16〜17 末尾〜冒頭 三首程度の遺漏はあり そんな少ししか業平歌を収めないものなら無視され
21 八段はちがう 直前の八段はちがうし、七段および一一〜一五段も同様
10 同じく惟喬親王関係の八六段も 宮仕えあるいは時の流れというテーマで関連する八六段も
24 冒頭 サンプル 用例
25 後から3
27 低下 変化
28 低下するとか、主人公も低俗化 変化するとか、主人公も変化
32 後から8〜6 別だし、雅平の典拠伊勢物語が「大和物語との重載章段を含まぬ伝本」(片桐『研究』一八一頁)だった可能性もゼロとは言い切れない(そうすると九首から五首に減る)。また、単純に9|23で計算すれば39%になり、目をつむれない数値でもない 別だ
33 たとえば、福井貞助『伊勢物語生成論』昭40・4有精堂二三一〜二三二頁 井貞助『伊勢物語生成論』昭40・4有精堂二三一〜二三二頁の、在中将集についての指摘
45 後から6 )。 )。石田穣二も、選別の可能性を説き、右の福井説を支持している(『角川文庫』二八六〜二八八頁)。
55 冒頭
61 後から9 片桐の指摘どおり 林の復元段序表より68・40・42段を一巡目に補って見ると、大体
63 後から14 頁。 頁。また、石田穣二も、選別の可能性を説き、福井説を支持する(『角川文庫』二八七〜二八八頁)。
66 には〈在中←西本←古今〉、後サイドには なら〈在中←西本←古今〉、後サイドなら
一二 または
10〜13 八サイドは当てはまる。当てはまらない計四サイドについても、八・一七・八八・一〇三段については、〈古今・西本・在中〉と三者がそろって終わっており、許容範囲と言えなくもない。「必ず」とは言えないまでも、まずまずの確率だ。 全て当てはまる。
70 10
71 後から4 サンプル
85 冒頭 る。 る。この段序にも、新しさを認め得る。
91 サンプル
後から4 ものだ ものだ(和歌除く)
93 78・81・96段の各「ココ」の欄   (1)
94 十分なサンプル数 用例数が十分
追認 首肯
98 後から7
105 後から7 主人公 登場人物
107 は、 は、会話文・心話文によく見られる、特立癖が出やすい
後から5 ものだ ものだ(和歌除く)
108 87段の欄
109 サンプル 用例
後から3
110 末尾 追認 首肯
123 低下 変化
124 末尾2行 女が思い直して追いすがっても、全く 心変わりした女が引き留めるべく歌を詠んでも、
125 冒頭
133 低下 変化
135
末尾 殆どの注釈書が言うように、都人の昔男が田舎女の「えびす心」を嫌うという論理なのだろう 都人の昔男が田舎女の「えびす心」を嫌うという論理で、実際そうなのだろう
143 後から8 サンプル 用例
146 布引の滝の前で 物見遊山に行った布引の滝の前で
149 後から3 派生 バイパス
151 後から2 これが これが第一部一首目に
末尾 八二段 第一部末尾一首が「付加されることによって、はっきりと惟喬悲劇の物語の様相を呈することになった」とする、吉山裕樹「惟喬親王物語の展開相−理念的人物像確立による質的変貌−」(「国文学攷」昭52・6)の指摘もある(二七頁)。
「付加された 「付加された
158 後から3 業平祖父平城皇ゆかりの地でもある 薬子の変で平安京派に敗れた、業平祖父平城皇ゆかりの地なのだ
160 が多い もある
162 後から5 すれば自虐的になる。田舎女には大して してやるせなくなる。田舎女には
163 後から9〜8 否定の一貫性(たとえば渡辺実『新潮日本古典集成』一四六〜一五一頁に解説がある) 否定
後から5 従来どおり、
164 13 五・六段後注 六段後注
165 悟った りつつあった
166 蘆屋 布引の滝
10 暮らす いるあるいは逃避する
後から〜6 多くを占め 少なからずい
後から3〜2 二○段という大きな原点回帰の軌道上にもあるが、一〜二○段というさらに小さい原点再回帰の軌道上にもあ 一六段という原点回帰の軌道と並ぶ、一〜二○段という原点再回帰の軌道を形成す
167 冒頭 皮肉を交えながら軽妙 軽妙
おこう おこう(一八段は、一七段の真の機知とも対照的)
168 る。 る。原点回帰だ。そして、
これが一六〜二○段の原点再回帰 原点再回帰
170 質の低い 質の
172 後から8 秋山 たとえば、秋山
175
176 今相手が自分をどう思っているかを考える つづく歌で、今相手が自分をっているかを考える渡辺『集成』は、自分を想う相手が幻として現出したととる信仰を読み、首肯される)
9〜10 の落ち度という概念は欠落している から強く出ることはない
後から8 いう、相手がどうなのかを気にした歌だ ある。本音は出ていても、プライドゆえにまわりくどくなっている
177
後から8 口先レベルに終始し 言葉レベルに終始し、関係修復のための行動に出ることもなかっ
178 後から4 時間の長さを示すという点で、第一部の存在は大きい。その長い時間の間に、 しかし、その長い時間のなかで
後から3 経済力を失い、昔男の愛おうとしている。一六段と相似する。けれど が〈ミヤビ〉でなくなることは、なかったと見ていい。後述する河内の女が「今はうちとけて」はしたなくなったのに対し、その種の情報はない。また、都にいないという没落に加え、親の経済力を失い、昔男の愛う危機に瀕しながら
後から2 もちつづけている。一六段同様、時間の流れ 有している。一六段の紀有常同様、時間の流れと没落
179 2〜3 つらく長い時間え抜いた 時間に対する性をもつ
10〜14 女が思い直して追いすがっても、全く振り返らなかった。また、〈ミヤビ〉にこだわりつづける昔男にとって、彼から離れて田舎男に乗り換えた女は、〈ミヤビ〉より〈ヒナビ〉を選んだという理由で、報復すべき対象になった。 心変わりした女が引き留めるべく歌を詠んでも、振り返らなかった。
後から2 耐性 時間に対する耐性
180 行動主体 弱さ/強さ評価対象
後から7〜6 「愛する女を奪った男唐土舟』に譬え、愛の破綻を嘆いた歌」(渡辺『集成』) ライバル大きな「唐土船」に譬え、心中穏やかでないこと
181 10
後から4 坂道を転がるように堕ちて、より無様な姿を晒すことになる。手を焼くだけではなくなるのだ。 三四段でどん底まで堕ちて、無様な姿を晒すことになる。
後から3 かのごとき歌後の 歌後の情報・
後から2 批判的 情報・
末尾 とにかく、歌後 歌後の情報・
182 コメント 情報
後から8〜7 のだから と読めば
183 10 復活・成長
後から4 甦り 復活・成長
後から3 る。 る。そして、自覚・反省する昔男像までも想像させる一文なのかもしれない。
後から2 復活 復活・成長
184 後から5
185 冒頭 結果を出 復活・成長
復活・成長
186 後から3 いる いる(一四段と一五段、一七段と一八段についても触れる)
187 後から7 低下 変化
188 後から10 復活・成長す
後から5〜4 一〜二○段や二一〜三七段にも時として友愛や恋慕の情が示されてはいたが、三八〜四八段はその その
189 後から8 会えなかった誰かに対し 待っていたのに待ち人が来ず
190 冒頭 より微妙に より
191 後から9 く、少々 く、
後から7 ・一一四
後から6 やわ
192 冒頭 想定し 考え
2〜3 「昔の若人は…」は、三八段のアイロニーや三九段の揶揄にも通じる韜晦の辞ととれる。 韜晦の辞「昔の若人は…」からは、三八段のアイロニーや三九段の揶揄と同様に、〈連帯〉を感じとれる(渡辺実『新潮日本古典集成』二一三頁にも場の想定があるが、仲間の揶揄とする点で私見と異なる)
後から6 どうし たち
193 渡辺新潮日本古典集成』 渡辺『集成』
後から9 る。三九段における博愛主義的な惜別の情。 る。
後から4
194 端は思い切ったらもかかわらず 旦は疎ましいと詠んだものの
12
195 を偲ぶ に同情する
気遣い 思いやり
思いやりと気遣いの二つの系 二系統の思いやり
後から5 面識も 昔男に対し一方的に想いを寄せた
196 後から14 そそ そそ
199 後から6 一旦 やはり
後から5〜3 まるで子供の謎々のような、理屈で固められたレトリックが多い。そういう類の歌を集めたのが、四九〜五七段と思われる。読者はその謎々に付き合わされることになる 技巧的なものや理屈っぽいものが多い。そういう類の歌を集めただけなのが、四九〜五七段と思われ(五五段のみ技巧的とも理屈っぽいとも言い難いため、前後章段の橋渡し的章段と読んでおく)
200 は、「ね」に「根」と「寝」、 は、
末尾 「あだ比べ」の五○段同様、切実さは伝わってこない 十分な意味づけを行ないつつ関連づけるのは難しい
201 後から10 昔男は襟を正す。章段の長さも、この段からは平均的な ると変化がある。章段の長さも、この段からは普通の
後から8〜7 イロゴノミとして 好色としてのイロゴノミではないものの、風流人としてのイロゴノミ
202 11 そそ そそ
後から6 以降 〜四八
203 一字ちがいで
10 九州方面 西国あるいは九州
後から8 さが
204 冒頭 慈愛に満ちてもいる。 り、
後から3 逍遥 さすらい
205 後から7 当事者的懊悩 懊悩
206 、東国よりは
後から4 すみ
後から3 憂みあるいは「憂し」の語が共通している。薄暗い色調だ。諦観にもとづく憂情 倦みあるいは「憂し」の語を有し、薄暗い色調で統一されている。六七段に関し、「雲」が「花の林」を嫌って「隠」れるととり、昔男が華やかさを嫌う心情を重ね合わせていると読めば、三首全てに憂情
207 冒頭2行 当事者的懊悩 懊悩
ふさわしい ふさわしい(既に宇津木敏郎『伊勢物語を読む』は、六八段のところで、六六〜六八段の憂情の共通性や、「東下り章段に倣った」点を指摘している
斎宮 斎宮・伊勢関連の
2・後から7・5 逍遥 さすらい
211 後から4 与し
214 後から4 む。 (法事は変の前だが、次段とともに史実との相違多く、拘泥しない)
216 が、 と読める(渡辺『集成』)
217 また
218
は、 は、出家事件前の拘束されるところから既に、
後から7 八四段と八六段は、七七段以来つづいている政治的敗者との交情というテーマからはやや なお、八六段は、七七段以来つづいている政治的敗者との交情というテーマからは
後から5 伊都内親王
219 に始発する
9〜10 抜け出して会えないほど忙しい ともに抜け出して会えないほど忙しい別々の部署への
11 関係風化させていく その変化駄目押しする
220 後から6 物見遊山する話で、親しい者どうし集まっているし、もし彼らが職場にいたとしても部署は近いはずだ を拠点に物見遊山する話で、都では同じく衛府に属す、親しい者たちが集まっている
後から4 る。 る。根は
後から3〜2 当事者ではなく、傍観者的な 悩む当事者ではなく、それを慰める
末尾 は、やや は、
221 後から7 嘆きの 厭う
222 嘆いて 厭い嘆いて
後から7 歌後 語り手による歌後
後から6 段の 歌後当然〜
後から5 諦め 疑念・諦め
後から3「あるいは」以下削除
224 後から5 他章にも回想を適用し 七六語り手=翁説も採っ
末尾 諸説あるが、渡辺『集成』の説を採った 互いに離れることのない一緒の部署への宮仕え、ととる説が多くを占めるが、そうは読まない
227 後から3 ちがう ちがう(九○段冒頭とも似るが、哀れさの程度が大きく異なる)
229 基経 良房
とれる とれる(渡辺『集成』も解説で示唆する)
230 があ を読め
女御・更衣なっ 高貴な女御と
10
231 る。 (石田穣二『角川文庫』に紹介あり)
無知で魯鈍 無知
233 だ。 (既に上坂信男『伊勢物語評解』に「裏返しの表現」との指摘がある)
に関して
235
後から8
236
わけで、昔男は真の当事者ではな。また、昔男自身、 、と読めば、昔男は真の当事者ではなくなる。また、昔男自身、男たちを泣かす
る。 、と読める(返歌ととらず独り言ととれば、さらに傍観者的)
237 後から5 恨み 思い
後から4 恨み 女に対する恨み
238 後から5 だし だし(『伊勢物語入門』平16・6鼎書房一三二頁に書いた)
後から17
239 冒頭 は、失策というより、はじめから破れかぶれの自暴自棄だったと読みた は、九七〜九八段/一○一段で見られたような絶妙なバランス感覚が見られな
自暴自棄的荒廃 荒廃
13 書く。 書く(既に由良琢郎『伊勢物語講説』が「かりぎぬ」の「対応」を指摘している)
240 末尾 照。 照。ちなみに、菊地も、「狩衣」に歌を書いた一段の行為を「若々しさの象徴」ととらえ、それが一一四段で「時代遅れ」になったと説いている(『論攷』一八七頁)。jまた、宇津木敏郎『伊勢物語を読む』も、「狩衣」の共通性を踏まえた上で、一段の「若者」の「登場」と一一四段の「翁」の「退場」を対比している。
242 後から3〜2 のが伊勢物語に適した読み方なら、繋いで読むのも あり方もあるが、繋いで読む方が
243 冒頭 成立論的読み相補論的読みもいずれも可能、とは言うものの、 成立論的読み相補論的読みを、比べてみてほしい。
244 後から3 好転し よくなってしまっ
後から2 満足している 平気な
245 冒頭2行 もちろん、逐語訳だけして、何がどうして好転したのかを追求しない注釈書も多い 昔男が〈ヒナビ〉を受け入れるはずあるまいと考えるからか、真正面からとらえない、その場しのぎといった印象の注釈書ばかりが目につく
一旦思い 思い
後から3 一五段 一四〜一五段
246 10 段と一一 段と一一
247 と読み得る
248 昔男 一一八段でも昔男
る。 る。難じるくらいだから期待はしていたのだろうが、その
11
後から6 返し 返し
後から2 の「 の「
249 住むことを決 の別れを翻
後から7
後から5 を、 と〈無私の愛〉を、
後から3 田舎 田舎
251
260 12 など具備した真の を具備した本来的
13 〈ミヤビ〉 変形の〈ミヤビ〉
261 冒頭〜11   ただし、〈モラル〉を破戒したからと言って、すなわち、〈ミヤビ〉の美的規範からはずれているからと言って、誰彼となく攻撃されるわけではない。たとえば、前述二三段の河内の女は結果的に捨てられるが、昔男は意識的に攻撃しているわけではない。一四段の田舎女に対しても、侮蔑こそしているが、基本的にどうでもいい相手という感じで、決してダメージを与えようとはしていない。むしろ、オブラートに包んだ表現で、田舎女自身も傷ついていない。そもそも、共感なり制裁なりの対象となり得る者は、昔男と没落をともにしながら〈ミヤビ〉を守りつづけることのできる可能性をもつ言わば有資格者で、その有資格者が〈ミヤビ〉を守るか失うかが関心事なのだ。生来の田舎女はもともと中心から離れた場所にいるし、〈ミヤビ〉など知るよしもない。ちなみに、前々章第一節で述べているように、「梓弓」の段として有名な二四段の女が三年目の浮気を咎められず、大して執着されないのも、彼女が生来の「片田舎」の女だったからと考えられる。〈ミヤビ〉の美的規範からはずれていても、生来の田舎女ははじめから対象外なのだ。
 
ならば、咎められる対象はどのような者なのか。
 
  伊勢物語全体を貫いて、昔男は田舎否定している。たとえば、前述二三段の河内の女に対してはすっぽかしつづけるし、一四段の陸奥の女に対する歌には社交辞令的ななかに侮蔑がある。前々章第一節でとりあげた二四段の田舎女に対しては、三年間ほったらかし、再会しても一切執着せずに去る(加えて、伊勢物語は、彼女に行き倒れという悲惨な結末を与える)。一五段の結末は、語り手のコメントから推測すれば、陸奥の女の「さがなきえびす心を見て」落胆・侮蔑したものと思われる。いずれにも、勧善懲悪ならぬ勧ミヤビ懲ヒナビ的な意識が認められよう。ただ、今問題にしているのは、〈モラル〉破戒を理由とする制裁だ。〈ミヤビ〉の美的規範からはずれ、懲ヒナビ的に遇されようと、生来の田舎女にしてみれば、「ボロは着てても心はミヤビ」的〈モラル〉を遵守するも破戒するもあるまい。もとより、昔男と没落をともにしながら〈モラル〉としての〈ミヤビ〉を守りつづける可能性をもつ言わば〈ミヤビ〉の有資格者ではないのだから
  ならば、
該当するのはどのような者なのか。具体的には、
12 らは前述 らは〈ミヤビ〉
13 徹底的否定 、〈モラル〉破戒を理由制裁
266 低下 変化
269 後から7 く、少々 く、
270 冒頭 少々
271 通わせる男が 男が既にいて独り身でもないのに昔男とも逢う、
275 後から10〜9 通わせる男が「一人のみもあらざりけらし」という相手の女と比較したうえでの、相対的評価としての「まめ」と考えられる。絶対的に「まめ」なのではあるまい 永続的なものでなく、初々しい二段の頃ならではの真面目さだろうし、相手の女と比較しての強調もあるかもしれないこの女は、結局複数の男と逢う、一枚上手な女なのだ)
276 冒頭2行 かと言って、イロゴノミ章段に加えるほどのものではないが って、イロゴノミ章段に加えることも可能
277 ここまでなら 昔男側から田舎女に「深く心を」寄せるとは考えられないが、あくまで大枠としてなら
後から5 に通底する 全体を貫く昔男の
284 い。 い。なお、後述する化粧には強い思い入れが認められるが、これとて激しさや露骨さとなって顕現するわけではない。
286 後から4〜2削除
290 後から8〜7 「化粧考−伊勢物語を読む」(「国学院雑誌」60 「化粧 伊勢物語を読むT」(『物語空間 ことばたちの森へ』634桜楓社
後から4 五九頁) 六五頁)
292 12 (6) (5)
293 後から6 る。 る。また、露骨さの有無からミヤビを論じた嚆矢としては、原岡文子「伊勢物語の男たち」(『一冊の講座 伊勢物語』)がある。
293〜294 末尾〜2削除
294 (6) (5)
298 後から7 用例的に苦しい 簡単に解せるところを複雑化している
299 後から4〜3 の多くは、歌自体の出来が称賛されたと述べている。もちろん歌自体の出来が悪ければ称賛などされないだろうが、果たして、歌の出来だけが問題になっているのだろうか には満足できないので、私なりに称賛の理由を考えてみる
300 部を 部を厳密に
ていないため、故意におどけたという肝心な部分が解釈できていない。 ないため、おどけまでは解釈できていない。「温かい思いやり」を指摘する阿部俊子『講談社学術文庫』も、興味を感じておもしろがったととって、滑稽さやおどけまでは言わない。
301 後から17 はインパクトが弱く、一体何を描こうとしているのか判然としない 、一見、インパクトが弱く、何を描こうとしているのか判然としないようにも見える
後から15 純粋 淋しげ
後から14 理解し 一見理解しづら
後から9 府督に似た不遇な人物だったということなのだろう。やはり、そうとるしかあるまい 門督・兵衛督と大差ない位階で死んだ者の家の前まで来て、日没。衛府督も、このまま一生を終えるのか
303 ろう ろう(神尾は、前述の第一部についても、衛府督の歌の体制批判を昔男の歌の滑稽さが緩和すると説くが、やはり、体制批判の問題としてはとらえられない)
303〜304 末尾〜冒頭 となってくる なのだ
304 い。 い。また、第一部の解釈に関しては、平9・1刊の秋山虔『新大系』が私見に近いが、本書三三八頁に示したとおり、私見の初出は平4・6だ。
後から8 』。 (後述)なお、大津有一・築島裕『大系』も同様だが、「愚かな着想を笑う」との説もあげている。しかし、「愚かな着想」説は、直後の称賛「この歌にめでて」と結び付かない。
後から7〜4 は、
   
かたはらの連中は−あるいは「袖の狭きになど身の不
   遇をかこつことばに苦笑
することがあったかもしれない
   が−
と訳
している。  
は、「『袖の狭きになど身の不遇をかこつことばに苦笑」した可能性を指摘している。
後から3 、および、後述する上坂信男『伊勢物語評解』
305 冒頭 い。 い。ちなみに、森野は、『伊勢物語の世界』昭53・11日本放送出版協会二四八頁において、「うだつがあがらないといえば私の方」との思いが昔男にあるとし、そう詠むことで「笑いにまぎらわし、白けかけたその座の空気をうまくほぐ」す、と述べている。後述するように、「座の空気をうまくほぐ」す点は認められるものの、不遇にもとづいた笑いでは、真の笑いも称賛も得られまい。
や竹岡『全評釈』
後から7 阿部『学術』森野『講談社』片桐『鑑賞』福井『全集』石田『角川』・上坂『評解』 阿部『学術』、大津・築島『大系』森野『講談社』片桐『鑑賞』上坂『評解』、福井『全集』石田『角川』
309 後から6〜5 そうはいかない。狩使本の構造的特徴を判断材料にしても 8283の古今集業平歌二首がより後にきてしまう。代わって66の後撰集業平歌一首が中心にくるものの、狩使本の構造的特徴は、実践本の巻序の時の方がわかりやすい。従って
313 5〜8 全ての「
329 低下 変化



『伊勢物語相補論』に戻る   田口研トップに戻る

★記事の無断転用は禁じます。