単著専門書『伊勢物語相補論』には訂正すべき箇所があるので、報告しておきます。失礼しました。 なお、61・66頁の誤りに関しては、とりわけ説明を要するため、「旧稿の訂正と補足」を書きました(32・218頁の誤りにも触れています)。 ご参照ください。 |
頁 | 行 | 誤 | 正 |
16〜17 | 末尾〜冒頭 | 三首程度の遺漏はあり | そんな少ししか業平歌を収めないものなら無視され |
21 | 4 | 八段はちがう | 直前の八段はちがうし、七段および一一〜一五段も同様 |
10 | 同じく惟喬親王関係の八六段も | 宮仕えあるいは時の流れというテーマで関連する八六段も、 | |
24 | 冒頭 | サンプル | 用例 |
25 | 後から3 | ||
27 | 9 | 低下 | 変化 |
28 | 6 | 低下するとか、主人公も低俗化 | 変化するとか、主人公も変化 |
32 | 後から8〜6 | 別だし、雅平の典拠伊勢物語が「大和物語との重載章段を含まぬ伝本」(片桐『研究』一八一頁)だった可能性もゼロとは言い切れない(そうすると九首から五首に減る)。また、単純に9|23で計算すれば39%になり、目をつむれない数値でもない | 別だ |
33 | 2 | たとえば、福井貞助『伊勢物語生成論』昭40・4有精堂二三一〜二三二頁 | 福井貞助『伊勢物語生成論』昭40・4有精堂二三一〜二三二頁の、在中将集についての指摘 |
45 | 後から6 | )。 | )。石田穣二も、選別の可能性を説き、右の福井説を支持している(『角川文庫』二八六〜二八八頁)。 |
55 | 冒頭 | 追 | 確 |
61 | 後から9 | 片桐の指摘どおり | 林の復元段序表より68・40・42段を一巡目に補って見ると、大体 |
63 | 後から14 | 頁。 | 頁。また、石田穣二も、選別の可能性を説き、福井説を支持する(『角川文庫』二八七〜二八八頁)。 |
66 | 4 | には〈在中←西本←古今〉、後サイドには | なら〈在中←西本←古今〉、後サイドなら |
9 | 後一二 | または後 | |
10〜13 | 八サイドは当てはまる。当てはまらない計四サイドについても、八・一七・八八・一〇三段については、〈古今・西本・在中〉と三者がそろって終わっており、許容範囲と言えなくもない。「必ず」とは言えないまでも、まずまずの確率だ。 | 全て当てはまる。 | |
70 | 10 | 追 | 確 |
71 | 後から4 | サンプル数 | 数 |
85 | 冒頭 | る。 | る。この段序にも、新しさを認め得る。 |
91 | 2 | サンプル | 用例 |
3 | |||
後から4 | ものだ | ものだ(和歌除く) | |
93 | 78・81・96段の各「ココ」の欄 | (1) | |
94 | 3 | 十分なサンプル数 | 用例数が十分 |
6 | 追認 | 首肯 | |
98 | 後から7 | ||
105 | 後から7 | 主人公 | 登場人物 |
107 | 3 | は、 | は、会話文・心話文によく見られる、特立癖が出やすい |
後から5 | ものだ | ものだ(和歌除く) | |
108 | 87段の欄 | 解 | 解解 |
109 | 8 | サンプル | 用例 |
後から3 | |||
110 | 末尾 | 追認 | 首肯 |
123 | 9 | 低下 | 変化 |
124 | 末尾2行 | 女が思い直して追いすがっても、全く | 心変わりした女が引き留めるべく歌を詠んでも、 |
125 | 冒頭 | 女 | 都女 |
133 | 6 | 低下 | 変化 |
135 | 6 | 追 | 確 |
末尾 | 殆どの注釈書が言うように、都人の昔男が田舎女の「えびす心」を嫌うという論理なのだろう | 都人の昔男が田舎女の「えびす心」を嫌うという論理で、実際そうなのだろう | |
143 | 後から8 | サンプル | 用例 |
146 | 5 | 布引の滝の前で | 物見遊山に行った布引の滝の前で、 |
149 | 後から3 | 派生 | バイパス |
151 | 後から2 | これが | これが第一部一首目に |
末尾 | 八二段 | 第一部末尾一首が「付加されることによって、はっきりと惟喬悲劇の物語の様相を呈することになった」とする、吉山裕樹「惟喬親王物語の展開相−理念的人物像確立による質的変貌−」(「国文学攷」昭52・6)の指摘もある(二七頁)。 | |
「付加された」 | 「付加」された | ||
158 | 後から3 | 業平の祖父平城天皇ゆかりの地でもある | 薬子の変で平安京派に敗れた、業平祖父平城上皇ゆかりの地なのだ |
160 | 3 | が多い | もある |
162 | 後から5 | すれば自虐的になる。田舎女には大して | してやるせなくなる。田舎女には |
163 | 後から9〜8 | 否定の一貫性(たとえば渡辺実『新潮日本古典集成』一四六〜一五一頁に解説がある) | 否定 |
後から5 | 従来どおり、昔 | 昔 | |
164 | 13 | 五・六段各後注 | 六段後注 |
165 | 2 | 悟った | 悟りつつあった |
166 | 6 | 蘆屋 | 布引の滝 |
10 | 暮らす | いるあるいは逃避する | |
後から7〜6 | 多くを占め | 少なからずい | |
後から3〜2 | 二○段という大きな原点回帰の軌道上にもあるが、一六〜二○段というさらに小さい原点再回帰の軌道上にもあ | 一六段という原点回帰の軌道と並ぶ、一〜二○段という原点再回帰の軌道を形成す | |
167 | 冒頭 | 皮肉を交えながら軽妙 | 軽妙 |
5 | おこう | おこう(一八段は、一七段の真の機知とも対照的) | |
168 | 2 | る。 | る。原点回帰だ。そして、 |
4 | これが一六〜二○段の原点再回帰 | 原点再回帰 | |
170 | 2 | 質の低い | 異質の |
172 | 後から8 | 秋山 | たとえば、秋山 |
175 | 8 | 手 | て |
176 | 9 | 今相手が自分をどう思っているかを考える | つづく歌で、今相手が自分を「思」っているかを考える(渡辺『集成』は、自分を想う相手が幻として現出したととる信仰を読み、首肯される) |
9〜10 | の落ち度という概念は欠落している | から強く出ることはない | |
後から8 | いう、相手がどうなのかを気にした歌だ | ある。本音は出ていても、プライドゆえにまわりくどくなっている | |
177 | 6 | 往い | 往 |
後から8 | 口先レベルに終始し | 言葉レベルに終始し、関係修復のための行動に出ることもなかっ | |
178 | 後から4 | 時間の長さを示すという点で、第一部の存在は大きい。その長い時間の間に、 | しかし、その長い時間のなかで |
後から3 | 女は経済力を失い、昔男の愛も失おうとしている。一六段と相似する。けれど | 女が〈ミヤビ〉でなくなることは、なかったと見ていい。後述する河内の女が「今はうちとけて」はしたなくなったのに対し、その種の情報はない。また、都にいないという没落に加え、親の経済力を失い、昔男の愛を失う危機に瀕しながら | |
後から2 | もちつづけている。一六段同様、時間の流れ | 有している。一六段の紀有常同様、時間の流れと没落 | |
179 | 2〜3 | つらく長い時間を耐え抜いた | 時間に対する耐性をもつ |
10〜14 | 女が思い直して追いすがっても、全く振り返らなかった。また、〈ミヤビ〉にこだわりつづける昔男にとって、彼から離れて田舎男に乗り換えた女は、〈ミヤビ〉より〈ヒナビ〉を選んだという理由で、報復すべき対象になった。 | 心変わりした女が引き留めるべく歌を詠んでも、振り返らなかった。 | |
後から2 | 耐性 | 時間に対する耐性 | |
180 | 2 | 行動の主体 | 弱さ/強さの評価対象 |
3 | 手 | て | |
後から7〜6 | 「愛する女を奪った男を『唐土舟』に譬え、愛の破綻を嘆いた歌」(渡辺『集成』) | ライバルを大きな「唐土船」に譬え、心中穏やかでないこと | |
181 | 10 | 手 | て |
後から4 | 坂道を転がるように堕ちて、より無様な姿を晒すことになる。手を焼くだけではなくなるのだ。 | 三四段でどん底まで堕ちて、無様な姿を晒すことになる。 | |
後から3 | かのごとき歌後の | 歌後の情報・ | |
後から2 | 批判的 | 情報・ | |
末尾 | とにかく、歌後 | 歌後の情報・ | |
182 | 7 | コメント | 情報 |
後から8〜7 | のだから | と読めば | |
183 | 10 | 甦 | 復活・成長す |
後から4 | 甦り | 復活・成長 | |
後から3 | る。 | る。そして、自覚・反省する昔男像までも想像させる一文なのかもしれない。 | |
後から2 | 復活 | 復活・成長 | |
184 | 後から5 | ひぢ | ひち |
185 | 冒頭 | 結果を出 | 復活・成長 |
5 | 甦 | 復活・成長す | |
186 | 後から3 | いる | いる(一四段と一五段、一七段と一八段についても触れる) |
187 | 後から7 | 低下 | 変化 |
188 | 後から10 | 甦 | 復活・成長す |
後から5〜4 | 一〜二○段や二一〜三七段にも時として友愛や恋慕の情が示されてはいたが、三八〜四八段はその | その | |
189 | 後から8 | 会えなかった誰かに対し | 待っていたのに待ち人が来ず |
190 | 冒頭 | より微妙に | より |
191 | 後から9 | く、少々 | く、 |
後から7 | 段 | ・一一四段 | |
後から6 | やわ | 軟 | |
192 | 冒頭 | 想定し | 考え |
2〜3 | 「昔の若人は…」は、三八段のアイロニーや三九段の揶揄にも通じる韜晦の辞ととれる。 | 韜晦の辞「昔の若人は…」からは、三八段のアイロニーや三九段の揶揄と同様に、〈連帯〉を感じとれる(渡辺実『新潮日本古典集成』二一三頁にも場の想定があるが、仲間の揶揄とする点で私見と異なる)。 | |
後から6 | どうし | たち | |
193 | 5 | 渡辺実『新潮日本古典集成』 | 渡辺『集成』 |
後から9 | る。三九段における博愛主義的な惜別の情。 | る。 | |
後から4 | 言 | い | |
194 | 9 | 端は思い切ったらもかかわらず | 旦は疎ましいと詠んだものの |
12 | 鳴 | な | |
195 | 3 | を偲ぶ | に同情する |
8 | 気遣い | 思いやり | |
9 | 思いやりと気遣いの二つの系 | 二系統の思いやり | |
後から5 | 面識も | 昔男に対し一方的に想いを寄せた | |
196 | 後から14 | そそぎ | そそき |
199 | 後から6 | 一旦 | やはり |
後から5〜3 | まるで子供の謎々のような、理屈で固められたレトリックが多い。そういう類の歌を集めたのが、四九〜五七段と思われる。読者はその謎々に付き合わされることになる | 技巧的なものや理屈っぽいものが多い。そういう類の歌を集めただけなのが、四九〜五七段と思われる(五五段のみ技巧的とも理屈っぽいとも言い難いため、前後章段の橋渡し的章段と読んでおく) | |
200 | 4 | は、「ね」に「根」と「寝」、 | は、 |
末尾 | 「あだ比べ」の五○段同様、切実さは伝わってこない | 十分な意味づけを行ないつつ関連づけるのは難しい | |
201 | 後から10 | り、昔男は襟を正す。章段の長さも、この段からは平均的な | ると、変化がある。章段の長さも、この段からは普通の |
後から8〜7 | イロゴノミとして | 好色としてのイロゴノミではないものの、風流人としてのイロゴノミ | |
202 | 11 | そそぎ | そそき |
後から6 | 段以降 | 〜四八段 | |
203 | 7 | も一字ちがいで | も |
10 | 九州方面 | 西国あるいは九州 | |
後から8 | さがし | 召し | |
204 | 冒頭 | り、慈愛に満ちてもいる。 | り、 |
後から3 | 逍遥 | さすらい | |
205 | 後から7 | 当事者的懊悩 | 懊悩 |
206 | 7 | 近郊 | 、東国よりは近く |
後から4 | すみ | 住 | |
後から3 | 憂みあるいは「憂し」の語が共通している。薄暗い色調だ。諦観にもとづく憂情 | 倦みあるいは「憂し」の語を有し、薄暗い色調で統一されている。六七段に関し、「雲」が「花の林」を嫌って「隠」れるととり、昔男が華やかさを嫌う心情を重ね合わせていると読めば、三首全てに憂情 | |
207 | 冒頭2行 | 当事者的懊悩 | 懊悩 |
2 | ふさわしい | ふさわしい(既に宇津木敏郎『伊勢物語を読む』は、六八段のところで、六六〜六八段の憂情の共通性や、「東下り章段に倣った」点を指摘している) | |
3 | 斎宮 | 斎宮・伊勢関連の | |
2・後から7・5 | 逍遥 | さすらい | |
211 | 後から4 | 与し | た |
214 | 後から4 | む。 | む(法事は変の前だが、次段とともに史実との相違多く、拘泥しない)。 |
216 | 2 | が、 | と読めるが(渡辺『集成』)、 |
217 | 2 | また人 | 人 |
218 | 2 | きれ | 切れ |
4 | は、 | は、出家事件前の拘束されるところから既に、 | |
後から7 | 八四段と八六段は、七七段以来つづいている政治的敗者との交情というテーマからはやや | なお、八六段は、七七段以来つづいている政治的敗者との交情というテーマからは | |
後から5 | 親 | 伊都内親王 | |
219 | 7 | 頃の | 頃に始発する |
9〜10 | 抜け出して会えないほど忙しい | ともに抜け出して会えないほど忙しい別々の部署への | |
11 | 関係を風化させていく | その変化を駄目押しする | |
220 | 後から6 | で物見遊山する話で、親しい者どうし集まっているし、もし彼らが職場にいたとしても部署は近いはずだ | を拠点に物見遊山する話で、都では同じく衛府に属す、親しい者たちが集まっている |
後から4 | る。 | る。根は | |
後から3〜2 | 当事者ではなく、傍観者的な翁の | 悩む当事者ではなく、それを慰める翁的 | |
末尾 | は、やや | は、 | |
221 | 後から7 | 嘆きの | 厭う |
222 | 4 | 嘆いて | 厭い嘆いて |
後から7 | 歌後 | 語り手による歌後 | |
後から6 | 段の | 段歌後の当然〜 | |
後から5 | 諦め | 疑念・諦め | |
後から3「あるいは」以下削除 | |||
224 | 後から5 | 他章段にも翁回想説を適用し | 七六段の語り手=翁説も採っ |
末尾 | 諸説あるが、渡辺『集成』の説を採った | 互いに離れることのない一緒の部署への宮仕え、ととる説が多くを占めるが、そうは読まない | |
227 | 後から3 | ちがう | ちがう(九○段冒頭とも似るが、哀れさの程度が大きく異なる) |
229 | 6 | 基経 | 良房 |
7 | とれる | とれる(渡辺『集成』も解説で示唆する) | |
230 | 6 | がある | を読める |
7 | 女御・更衣となっ | 高貴な女御とし | |
10 | 忍 | 偲 | |
231 | 5 | る。 | る(石田穣二『角川文庫』に紹介あり)。 |
9 | 無知で魯鈍 | 無知 | |
233 | 6 | だ。 | だ(既に上坂信男『伊勢物語評解』に「裏返しの表現」との指摘がある)。 |
8 | に関して無知 | と無縁 | |
235 | 7 | 支流 | 流れ |
後から8 | 支流 | 流れ | |
236 | 6 | 鳴 | な |
8 | わけで、昔男は真の当事者ではない。また、昔男自身、 | 、と読めば、昔男は真の当事者ではなくなる。また、昔男自身、男たちを泣かす | |
9 | る。 | る、と読める(返歌ととらず独り言ととれば、さらに傍観者的)。 | |
237 | 後から5 | 恨み | 思い |
後から4 | 恨み | 女に対する恨み | |
238 | 後から5 | だし | だし(『伊勢物語入門』平16・6鼎書房一三二頁に書いた) |
後から17 | 支流 | 流れ | |
239 | 冒頭 | は、失策というより、はじめから破れかぶれの自暴自棄だったと読みた | には、九七〜九八段/一○一段で見られたような絶妙なバランス感覚が見られな |
6 | 自暴自棄的荒廃 | 荒廃 | |
13 | 書く。 | 書く(既に由良琢郎『伊勢物語講説』が「かりぎぬ」の「対応」を指摘している)。 | |
240 | 末尾 | 照。 | 照。ちなみに、菊地も、「狩衣」に歌を書いた一段の行為を「若々しさの象徴」ととらえ、それが一一四段で「時代遅れ」になったと説いている(『論攷』一八七頁)。jまた、宇津木敏郎『伊勢物語を読む』も、「狩衣」の共通性を踏まえた上で、一段の「若者」の「登場」と一一四段の「翁」の「退場」を対比している。 |
242 | 後から3〜2 | のが伊勢物語に適した読み方なら、繋いで読むのも | あり方もあるが、繋いで読む方が |
243 | 冒頭 | も成立論的読みも相補論的読みもいずれも可能、とは言うものの、 | と成立論的読みと相補論的読みを、比べてみてほしい。 |
244 | 後から3 | 好転し | よくなってしまっ |
後から2 | 満足している | 平気な | |
245 | 冒頭2行 | もちろん、逐語訳だけして、何がどうして好転したのかを追求しない注釈書も多い | 昔男が〈ヒナビ〉を受け入れるはずあるまいと考えるからか、真正面からとらえない、その場しのぎといった印象の注釈書ばかりが目につく |
9 | 一旦思い | 思い | |
後から3 | 一五段 | 一四〜一五段 | |
246 | 10 | 五段と一一六 | 六段と一一七 |
247 | 8 | 女 | と読み得る女 |
248 | 6 | 昔男も | 一一八段でも昔男は |
8 | 非難する。 | 難じる。難じるくらいだから期待はしていたのだろうが、その | |
11 | 返 | 帰 | |
後から6 | 返し | 返し的 | |
後から2 | の「返 | の「帰 | |
249 | 8 | 住むことを決 | の別れを翻 |
後から7 | 鳴 | な | |
後から5 | を、 | と〈無私の愛〉を、 | |
後から3 | 片田舎 | 田舎 | |
251 | 3 | ゆく | 行く |
260 | 12 | などをも具備した真の | を具備した本来的 |
13 | 〈ミヤビ〉 | 変形の〈ミヤビ〉 | |
261 | 冒頭〜11 | ただし、〈モラル〉を破戒したからと言って、すなわち、〈ミヤビ〉の美的規範からはずれているからと言って、誰彼となく攻撃されるわけではない。たとえば、前述二三段の河内の女は結果的に捨てられるが、昔男は意識的に攻撃しているわけではない。一四段の田舎女に対しても、侮蔑こそしているが、基本的にどうでもいい相手という感じで、決してダメージを与えようとはしていない。むしろ、オブラートに包んだ表現で、田舎女自身も傷ついていない。そもそも、共感なり制裁なりの対象となり得る者は、昔男と没落をともにしながら〈ミヤビ〉を守りつづけることのできる可能性をもつ言わば有資格者で、その有資格者が〈ミヤビ〉を守るか失うかが関心事なのだ。生来の田舎女はもともと中心から離れた場所にいるし、〈ミヤビ〉など知るよしもない。ちなみに、前々章第一節で述べているように、「梓弓」の段として有名な二四段の女が三年目の浮気を咎められず、大して執着されないのも、彼女が生来の「片田舎」の女だったからと考えられる。〈ミヤビ〉の美的規範からはずれていても、生来の田舎女ははじめから対象外なのだ。 ならば、咎められる対象はどのような者なのか。 |
伊勢物語全体を貫いて、昔男は田舎否定している。たとえば、前述二三段の河内の女に対してはすっぽかしつづけるし、一四段の陸奥の女に対する歌には社交辞令的ななかに侮蔑がある。前々章第一節でとりあげた二四段の田舎女に対しては、三年間ほったらかし、再会しても一切執着せずに去る(加えて、伊勢物語は、彼女に行き倒れという悲惨な結末を与える)。一五段の結末は、語り手のコメントから推測すれば、陸奥の女の「さがなきえびす心を見て」落胆・侮蔑したものと思われる。いずれにも、勧善懲悪ならぬ勧ミヤビ懲ヒナビ的な意識が認められよう。ただ、今問題にしているのは、〈モラル〉破戒を理由とする制裁だ。〈ミヤビ〉の美的規範からはずれ、懲ヒナビ的に遇されようと、生来の田舎女にしてみれば、「ボロは着てても心はミヤビ」的〈モラル〉を遵守するも破戒するもあるまい。もとより、昔男と没落をともにしながら〈モラル〉としての〈ミヤビ〉を守りつづける可能性をもつ、言わば〈ミヤビ〉の有資格者ではないのだから。 ならば、該当するのはどのような者なのか。具体的には、 |
12 | らは前述 | らは〈ミヤビ〉 | |
13 | 徹底的に否定 | 、〈モラル〉破戒を理由に制裁 | |
266 | 3 | 低下 | 変化 |
269 | 後から7 | く、少々 | く、 |
270 | 冒頭 | 「少々 | 「 |
271 | 2 | 通わせる男が | 男が既にいて独り身でもないのに昔男とも逢う、 |
9 | 鳴 | な | |
275 | 後から10〜9 | 通わせる男が「一人のみもあらざりけらし」という相手の女と比較したうえでの、相対的評価としての「まめ」と考えられる。絶対的に「まめ」なのではあるまい | 永続的なものでなく、初々しい二段の頃ならではの真面目さだろうし、相手の女と比較しての強調もあるかもしれない(この女は、結局複数の男と逢う、一枚上手な女なのだ) |
276 | 冒頭2行 | かと言って、イロゴノミ章段に加えるほどのものではないが | 従って、イロゴノミ章段に加えることも可能 |
277 | 9 | ここまでなら | 昔男側から田舎女に「深く心を」寄せるとは考えられないが、あくまで大枠としてなら、 |
後から5 | に通底する | 全体を貫く昔男の | |
284 | 5 | い。 | い。なお、後述する化粧には強い思い入れが認められるが、これとて激しさや露骨さとなって顕現するわけではない。 |
286 | 後から4〜2削除 | ||
290 | 後から8〜7 | 「化粧考−伊勢物語を読む−」(「国学院雑誌」昭60・7) | 「化粧 伊勢物語を読むT」(『物語空間 ことばたちの森へ』昭63・4桜楓社) |
後から4 | (五九頁) | (六五頁) | |
292 | 12 | (6) | (5) |
293 | 後から6 | る。 | る。また、露骨さの有無からミヤビを論じた嚆矢としては、原岡文子「伊勢物語の男たち」(『一冊の講座 伊勢物語』)がある。 |
293〜294 | 末尾〜2削除 | ||
294 | 3 | (6) | (5) |
298 | 後から7 | 用例的に苦しい | 簡単に解せるところを複雑化している |
299 | 後から4〜3 | の多くは、歌自体の出来が称賛されたと述べている。もちろん歌自体の出来が悪ければ称賛などされないだろうが、果たして、歌の出来だけが問題になっているのだろうか | には満足できないので、私なりに称賛の理由を考えてみる |
300 | 2 | 部を | 部を厳密に |
5 | ていないため、故意におどけたという肝心な部分が解釈できていない。 | ないため、おどけまでは解釈できていない。「温かい思いやり」を指摘する阿部俊子『講談社学術文庫』も、興味を感じておもしろがったととって、滑稽さやおどけまでは言わない。 | |
301 | 後から17 | はインパクトが弱く、一体何を描こうとしているのか判然としない | は、一見、インパクトが弱く、何を描こうとしているのか判然としないようにも見える |
後から15 | 純粋 | 淋しげ | |
後から14 | 理解し難 | 一見理解しづら | |
後から9 | 府督に似た不遇な人物だったということなのだろう。やはり、そうとるしかあるまい | 門督・兵衛督と大差ない位階で死んだ者の家の前まで来て、日没。衛府督も、このまま一生を終えるのか | |
303 | 6 | ろう | ろう(神尾は、前述の第一部についても、衛府督の歌の体制批判を昔男の歌の滑稽さが緩和すると説くが、やはり、体制批判の問題としてはとらえられない) |
303〜304 | 末尾〜冒頭 | となってくる | なのだ |
304 | 3 | い。 | い。また、第一部の解釈に関しては、平9・1刊の秋山虔『新大系』が私見に近いが、本書三三八頁に示したとおり、私見の初出は平4・6だ。 |
後から8 | 』。 | 』(後述)。なお、大津有一・築島裕『大系』も同様だが、「愚かな着想を笑う」との説もあげている。しかし、「愚かな着想」説は、直後の称賛「この歌にめでて」と結び付かない。 | |
後から7〜4 | は、 かたはらの連中は−あるいは「袖の狭きに」など身の不 遇をかこつことばに苦笑することがあったかもしれない が− と訳している。 |
は、「『袖の狭きに』など身の不遇をかこつことばに苦笑」した可能性を指摘している。 | |
後から3 | 』 | 』、および、後述する上坂信男『伊勢物語評解』 | |
305 | 冒頭 | い。 | い。ちなみに、森野は、『伊勢物語の世界』昭53・11日本放送出版協会二四八頁において、「うだつがあがらないといえば私の方」との思いが昔男にあるとし、そう詠むことで「笑いにまぎらわし、白けかけたその座の空気をうまくほぐ」す、と述べている。後述するように、「座の空気をうまくほぐ」す点は認められるものの、不遇にもとづいた笑いでは、真の笑いも称賛も得られまい。 |
2 | 』 | 』や竹岡『全評釈』 | |
後から7 | ・阿部『学術』・森野『講談社』・片桐『鑑賞』・福井『全集』・石田『角川』・上坂『評解』 | 、阿部『学術』、大津・築島『大系』、森野『講談社』、片桐『鑑賞』、上坂『評解』、福井『全集』、石田『角川』 | |
309 | 後から6〜5 | そうはいかない。狩使本の構造的特徴を判断材料にしても | 8283の古今集業平歌二首がより後にきてしまう。代わって66の後撰集業平歌一首が中心にくるものの、狩使本の構造的特徴は、実践本の巻序の時の方がわかりやすい。従って |
313 | 5〜8 | 全ての「の」 | 之 |
329 | 3 | 低下 | 変化 |