以下の「伊勢物語で遊ぼう」ダイジェスト版は、もともとはインターネット博覧会で連載した「伊勢物語で遊ぼう」を大学院生が要約したものですが、 後に、「伊勢物語対話講義」との連動させるため、全面改訂を行なっています。 ★伊勢の全原文は、「日本語テキストイニシアチブ」でご覧になれます(こちら)。 |
【はじめに】 この「伊勢物語で遊ぼう」は、田口尚幸(以下筆者と記す)が書いた論文七本のうちの二本目までのエッセンスを、イン ターネット世代に向けて平易にかみくだいたものである。範囲は、1〜37段で、38段以降は省略している。 「伊勢物語で遊ぼう」というタイトルからは王朝文学にありがちな高級和風料理のような香りが全く感じられないが、そ れは、筆者が理想とする前頭葉直撃主義に由来しているからである。読者の前頭葉をビリビリ刺激したい、知的に遊んでも らいたい、という思いを込めて、「伊勢物語で遊ぼう」なのである。 また、筆者は、伊勢が源氏物語の陰に隠れている現状を打開したい、とも考えている。 【第1回 伊勢物語は組立式ブロック】 伊勢物語は、ストーリーがあるようでないため、自分なりにいろんな話を自由に組み合わせられる。各章段の冒頭も「昔、 〜」と一々リセットするから、独立性が高い。プロット=あらすじはかろうじてあるが、それとて大した拘束力はない。そ のため、昔の読者のなかには、組み合わせどころか、配列まで変えてしまった者がいたらしい。 また、本文自体がおぼめかす文体で、何を言っているのか、読者各々が自ら積極的に深読みしていかないとわからない。 読者各々の様々な読みが招来されるのである。 読者各々が話を組み合わせ、文意も決定していくのは、まるで組立式ブロックのようである。そして、組立式ブロックの 完成形は一つではなく、自由度が高い。 【第2回 マイナー章段は意地の見せどころ】 百余り章段から成る伊勢物語は、大変不統一である。多くの研究者は、「この章段は〜、あの章段は〜」あるいは「これ ら章段のグループは〜、あれら章段のグループは〜」などと読み、一緒くたに読もうとはしない。その方が不統一からくる 矛盾につまづかずに読んでいけるからである。なかでも、全体を三つのグループに分け、第一・二グループと第三グループ を比較し、成立時期が下るにつれて物語が質的に変化した、と述べた研究者の説は有名だった。彼のグループ分けのやり方 に多くの批判はあったが、一緒くたにしないという基本姿勢は多くに影響を与えた。 しかし、どこまでが古くてどこまでが新しいかは、厳密にわかるものではない。だから、筆者は成立の早遅を問題にせず、 どんな不統一な章段どうしでもつなぐことにしたのである。 筆者の「配列順相補的解釈シリーズ」(平15・10おうふう刊の専門書『伊勢物語相補論』第二部第二章に当たる)は、ど んなマイナーな章段をも軽視せず、他章段とつなぎつつ積極的に意味を見出していく読み=つなぎ読みである。 この読み方で工夫すれば、実は、マイナー章段こそ面白くなる 。マイナー章段をわかりやすく説明するため伊勢の章段 たちを寿司にたとえると、見栄えのいいトロやウニがある一方で、見栄えのよくないカンピョウ巻きや納豆巻き、挙句の果 てにはタクワン巻きなどもある。トロやウニなどのメジャー章段は面白いから研究論文も多く、カンピョウ巻きなどのマイ ナー章段は少ない。 マイナー章段をどう調理するかが、研究者の意地の見せどころなのである。 【第3回 言葉の意味を決めるのは読者各々】 1段では、元服したての主人公(以後昔男と呼ぶ)が、旧都となった平城京で「いとなまめいたる女はらから(姉妹)」を 見つけ、とっさに気の利いた歌を詠み贈る。注釈書には「なまめいたる」を「若々しい」というような意味で訳すものもあ り、確かにそんな意味はある。しかし、だからと言って、縛られることはない。辞書に載ってる意味で、当時使われていた 意味であること。文脈的に齟齬をきたさない意味であること。この条件を満たしてさえいれば、答は一つと限らない。注釈 者は一つに絞らなければならないためいろんなことを言うが、言葉の意味には幅があり、一つに絞るのが難しい場合は出て くる。そんな時は、自由に意味を選ぶ。 筆者は、「なまめいたる」を「上品な」と訳した。内面からにじみ出てくる上品さの説明、ととった。2段や3〜6段との関 係を面白くするために、そう訳したのである。 2段の舞台は、平安京のなかでもさびれた「西の京」。さびれている点では1段の平城京と同じであり、そこに住む女は、 「かたちよりは心なむまさりたりける」、すなわち、外面より内面がすぐれている、と説明される。つまり、この2段と先程 の1段の相似を読むには、1段の「なまめいたる」も、内面のよさについての説明でなければならなかったわけである。 対照的に、3〜6段の舞台は、平安京のなかでも栄えている「東の五条」。相手の女は、皇太后邸という都の中心地に住む お姫様=藤原高子(後の二条后)。1〜2段の女たちとは好対照で、陰/陽と言える。加えて、このお姫様には、内面にかかわ る説明が全くなく、6段に「かたちのいとめでたくおはしければ」という外面のよさについての説明がある。その意味でも、 1段の「なまめいたる」は、 内面についての説明であってほしい。1〜2段の内面/3〜6段の外面、といったせっかくの好対照 を活かして読まない手はない。 さらに言えば、お姫様は後に清和天皇の后となるが、その天皇は、「伊勢物語で遊ぼう」では守備範囲外となる65段にお いて「顔かたちよくおはしまして」と説明される。つまり、天皇と后が美男美女のカップルとなり、陽の人物について外面 のよさを言う点が明確化するのである。もちろん、となれば、陰の人物について内面のよさを言う点がより対照的に際立つ。 このようにして、筆者は、陰/陽論と内面/外面論の面白さを説く。 【第4回 大きなビジョンがないとね】 筆者は、配列順に話をつないでいく前に、伊勢物語全体を見渡した上での大きなビジョンをもち、昔男といろんな女たち の関係について、ある図式を想定していた。その図式とは、共感によって連帯する同朋タイプが本命としてあり、それをお 姫様タイプと田舎女&都落ち女タイプの二タイプが対照例として際立たせる、というものである。 T、同朋タイプ。昔男同様没落しているけれどミヤビのプライド=内面のよさは保っている女たちである。筆者は、その プライドを「ボロは着てても心はミヤビ」とたとえる。つまり、昔男にとっては共感し合える相手・連帯し得る相手であり、 これが本命になると筆者は考えるのである。たとえば、1〜2段の女たちや、1段同様大和に住む第10回の20段の女、第 11・12・13回の23段の女たちなどが該当する。 U、お姫様タイプ。3〜6段にも登場した藤原高子、後の二条后である。時の権力者が天皇の后にして一族の権力を磐石化 しようと考える、大切な持ち駒である。昔男は彼女に惚れたが、本命ではないと筆者は考える。このお姫様は没落とは無縁 であり、没落しながらもミヤビのプライド=内面のよさを保っているかがチェックポイントだとすれば、ハズレてしまうか らである。また、第3回で述べたとおり、内面のよさが記されず、6段に「かたちのいとめでたくおはしければ」と外面の よさのみ記されるため、その点でもハズレる。 多くの研究者は彼女を本命のヒロインと見てきたが、そう見ない読み方もまた可能なのである。 V、田舎女タイプ。生まれつきの田舎女たちである。生来の田舎女であれば、はじめから田舎にいるわけだから、没落し ていることにはならない。もちろん、ミヤビもない。やはり、ハズレてしまう。昔男は、田舎女たちを否定している。たと えば、第7回の東下り章段群では、昔男は、10・12・14・15段の田舎女たちに本気になれずじまいでいる。同じくV、都落 ち女タイプ。昔は都女だったが今は都落ちしてヒナビに染まったもと妻たちである。没落を受け容れ、ミヤビのプライドを 失ってしまった女たちなので、こちらもハズレとなる。「伊勢物語で遊ぼう」では守備範囲外となる60・62段において、昔 男は、否定も否定、イジメている(第14回参照)。 1〜16段は、上記の三分類という大きなビジョンをもって、読んでみたい。 ちなみに、7〜15段の東下り章段群で田舎女たちに接した後、昔男は16段で帰京し、「ボロは着てても心はミヤビ」な友達 =紀有常と再会して、彼を援助する(女ではないものの、盟友と言うべき有常も同朋タイプになる)。16段も、1〜2段とセ ットにしておけば、対照例の3〜6・7〜15段で試行錯誤し、16段で1〜2段に原点回帰する、という円環性が出てくる。1〜16 段の構成もビシッとキマるわけである(第8回参照)。 筆者が読みの決め手にしているのは、そう読むことで他章段との関係がどれだけ深まりかつ広がるか、という点であり、 構成論と読みが一体になって伊勢全体を面白くするものをめざしているのである。 【第5回 お好み焼きのように混ぜる】 3〜6段のお姫様=藤原高子(後の二条后)の話には、極端に短い話があったり、いきなり「鬼」が出てきたりする。 第2回で紹介した、 伊勢物語の章段を成立の早遅を想定することで振り分ける論によると、3〜6段のうち、極端に短い3 段と「鬼」が出てくる6段は、最終段階での付加とされている。 しかし、この成立論の弱点は二つある。段階分けの信頼性が不十分という点と、読みの満足感がイマイチという点である。 段階分けに関して言えば、たとえ3〜6段の範囲内である程度まで使えたとしても、どうかと思われる。ほかでもどこでも 使え、かつ、不安なく使えるものでなければならないから、ここでも依拠すべきではない。 読みの満足感に関して言えば、第3回および第4回でとりあげた「かたちのいとめでたくおはしければ」という外面のよ さについての説明は、最終段階の付加とされる6段の、しかも後半部の解説の部分にある。あやしげな部分であるせいか、成 立論的な読みにおいては重視されていない。けれども、活かせるものは活かし、内面/外面の対照性、女たちのタイプ三分類、 といった具合に、話を深化させつつ広げていきたい。そうやって面白くすべき、と筆者は考える。 伊勢は、お好み焼きみたいなものである。古い干しエビも、しなびたキャベツも、割と新しい豚肉も、新鮮なタマゴも、 みんな混ぜる。混ぜる、食べる、うまい、というわけである。 なお、最終段階の編作者がキレ者で、よく考えられて付け足されたと考える人がいるかもしれないが、筆者が最終的編 作者の意図を追い越している可能性もある。それは結局わからないことなのだから、とにかく、読者としてどう読めたかと いうだけでいいはずである。 【第6回 不本意ながら惚れちゃった】 4段には、お姫様=藤原高子(後の二条后)に対し、「本意にはあらでこころざし深かりける」昔男がお姫様のもとに「行 き訪ひける」、とある。そのまま直訳すれば、不本意ながら深く愛したことになる。わかりづらい箇所で、何かワケがあり そうに感じられる。 諸説あるが、仇敵意識のある藤原氏のお姫様ゆえ不本意なんだけれども深く愛してしまった、とする説などがまあ無難で はあろう。 しかし、筆者の読みは異なる。第4回で見た女たちのタイプ三分類によれば、本命となり得るのは、元服したての1〜2段 =原体験で接したような、「ボロは着てても心はミヤビ」な同朋タイプである。これを踏まえて読めば、理想像とかちがう 相手なので不本意、けれど、試行錯誤する駆け出しゆえ深く愛してしまった、となる。三分類への深化と広がりをねらって 読むなら、そんな読みもアリ。よって、多くの研究者が彼女を本命のヒロインと見ていようとも、筆者は気にしない(第4 回参照)。 もちろん、上記以外の読みも、理屈さえ通れば、アリ。いろんな説がある。たとえば、俵万智『恋する伊勢物語』ちくま 文庫は、身分差があることを頭ではわかっていたから「本意にはあらで」、としている。また、俵『恋する』は、嫌ってい る藤原氏の娘に惚れたから「本意にはあらで」、という読みも併せて載せている。つまり、様々に読めるのである。 筆者は、作品論とテクスト論を紹介する。作品論とは、作者の唯一無二の意図を知ろう、という読み方で、テクスト論と は、読者各々がどう読めるか、という読み方である。様々に読める伊勢は、テクスト論のためにあるようなものと思われる。 成立事情が複雑で作者(原作者や編作者など)の姿も見えづらい。作者への気兼ねもなくなる。ただし、明らかなまちがい もあるから、やりたい放題の無法地帯になってはならない。 【第7回 内面/外面論をしぶとく引っ張る】 昔男は、6段でお姫様=藤原高子(後の二条后)をその兄たちに奪われた後、都にいたくなくなり、東国へと下る。今とち がい、当時は都以外田舎であった。都人の都至上主義・田舎否定も、今と比べようがないほど甚しかった。この旅は、松尾 芭蕉の『奥の細道』などと同列には論じられない。その土地その土地で感動しているわけではないからである。東下りとは、 昔男が自身の都至上主義・田舎否定を再確認する非常に屈折した暗い旅なのである。何かにつけて都を思い出し、都の価値 基準に浸かったままで、田舎および田舎女に馴染んだり本気になったりすることもない。たとえば、9段第一部の「かきつば た」の歌にしても、その土地を褒めてるわけではなく、都を懐かしみ、遠くに来たことを思ってるだけである。それを聞い た同行者も大泣きしているし、同行者の大泣きは、第三部にもある。昔男自身も、きっと同様な気分だったと考えられる。 しかし、「自身の都至上主義&田舎否定を再確認する非常に屈折した暗い旅」なんて、誰にでもわかりそうなことである。 東下り章段群の終わりにくる14段や15段をとりあげ、実は昔男は田舎女とも共感し合っていて田舎否定してないとか、15 段においては昔男の内面がヒナビだったとか、ちょっとちがうことを言う研究者たちもいるが、まず、昔男の都至上主義& 田舎否定とどう折り合いをつけるのか疑問である。また、昔男が相手の選択を誤ったというかたちでないと、第8回で述べ る試行錯誤ひいては原点回帰の円環性が言えないし、15段で問題になる内面が田舎女のものでかつ否定されるものでなけれ ば、後述する内面/外面論も言えない。せっかくのつながりが断たれてしまい、もったいない限りである。 筆者は、つながりを保てるようなかたちで新見を述べたい、と考える。 注目するのは、何の取柄もない田舎男の妻になっている女が登場する15段である。直前の14段ではあまりにヒナビた田舎 女に接して帰京宣言した昔男は、10・12段の女たちも含め、田舎女に本気になれないはずなのに、今度は少し様子がちがう。 不思議と魅力的に見える女がいるとなれば、帰京宣言も一旦中止。女に、アナタの「心の奥」を見たい、と歌を詠み掛ける。 第3回では、1〜2段の内面のよい女たちと3〜6段の外面のよいお姫様の対照性を述べた。第6回では、外面のよいお姫様 なんて結局不本意ながら惚れてしまった相手にすぎない、と読んだ。ならば、今度の15段では、昔男は内面重視の必要性を 学習しているはずだから、内面にこだわるのではないか。けれども、15段の最後は、そんな田舎女の内面=「さがなきえび す心」を見ても無駄、という語り手のコメントで締め括られる。やはり田舎女では所詮ダメで、きっと昔男も落胆・侮蔑し たものと推測できる。要するに、上記の読みは、これまでの内面/外面論をしぶとく引っ張ってくる読みなのである。 もう一点付け足すと、内面/外面について明記してあるのは、1〜2段では2段、3〜6段では6段、7〜15段では15段。面白い ことに、内面/外面論は、各章段群の締め括りに明記されているのである。 【第8回 原点回帰の円環性も見えてくる】 第4回には、「対照例の3〜6・7〜15段で試行錯誤し、16段で1〜2段に原点回帰する、という円環性が出てくる」との予 告があった。筆者は、3〜6・7〜15段をアイデンティティー確認に至る前の試行錯誤として位置づけた上で、16段で1〜2段 に原点回帰する円環性を読む。 3〜6段でお姫様=藤原高子を奪えなかったことも、7〜15段の東下りで田舎女たちに辟易したことも、いい体験。試行錯 誤したからこそやがて見えてくるものがあり、アイデンティティー確認に至る下地もできる。1〜2段の原体験で接した「ボ ロは着てても心はミヤビ」な女たちは理想像として心の奥底に刷り込まれていて、3〜6・7〜15段の試行錯誤中は伏流水の ごとく伏流している。 そして、16段には、没落しながらもミヤビのプライドは保ちつづける、1〜2段の女たちによく似たキャラクターが登場す る。昔男が再会する友達=紀有常は、貧しくてもミヤビのプライドは保ちつづけている。1〜2段とちがうのは、舞台がただ 単に都である点。これは、東下りから昔男を呼び戻すために田舎の対極=都に舞台設定しなければならなかったから、と考 えられる。没落の地に住むという設定が帰京という大枠のせいで使えないとなれば、田舎/都のコードを貧/富という別のコ ードに変換する必要がある。このコード変換さえ理解すれば、1〜2段と16段の相似はわかる(第4回では、1〜2段の女たち も、16段の有常も、同じ同朋タイプとしている)。 さらに、1〜2段/3〜6・7〜15段/16段というマクロな見方をすれば、原点回帰の円環性も見えてくる。1〜2段に始発し、3 〜6・7〜15段を経て16段に至ると、1〜2段に原点回帰している。換言すれば、1〜2段は第一の冒頭、16段は第二の冒頭・真 の冒頭とも言い得る。自分が何者か頭でハッキリ理解した昔男の物語が、16段からはじまっていくのである。 また、第7回では、内面/外面論をしぶとく引っ張ってきたと述べたが、2段/6・15段の各章段群締め括りの総締め括りと しても16段は機能する。16段は、内面のことを言っている。内面/外面論は、さらにここまで引っ張れるのである。 【第9回 カンピョウ巻きがいよいよ登場】 今回はやっとマイナー章段らしいマイナー章段が登場する。とりあげるのは、17・18・19段。 17段は、昔男がある家を訪問し、家の主と歌を贈答する話であるが、その主は、16段からひきつづいて友達の紀有常とも とれるし、全く別人ともとれる。筆者は、隣接している点と、17段が16段とつなぎ読みたくなる内容である点から、有常と とる。 どうしてつなぎ読みたくなるかと言えば、昔男に「来そうにないアナタを待っていた」と歌を詠み掛ける17段の主の歌が、 帰京・再会の16段の後日談としてピッタリだからである。 また、16段における有常の感謝は、オーバーでベタベタ気味だった。それに対し、17段における主と昔男の歌の贈答は、 軽妙かつクールと読める。16段が17段で口直しされ、カウンターバランスがとれる、という点も見逃せない。このように16 段とつなぎ読めば、17段の存在意義も大きくなる。 18段は、都に住んでいると思われる女のエセミヤビを批判する話である。16〜17段の有常が真のミヤビの具現者なら、こ のギザなだけの女はニセモノ。16〜17段のただし書きと読めばいい。「ただし、こういうニセモノもいるら、区別せよ」と。 19段は、誠実さに欠ける女の軽佻浮薄を批判する話である。こちらの女も、真のミヤビをもち、信頼できる友達として登 場する16段の有常とはベツモノで、ただし書きと見なし得る。 マイナーな17・18・19段も、16段あるいは16〜17段とつなぎ読めば、輝きが出てくる。カンピョウ巻きのように手間と工 夫で調理したい章段たちであり、伊勢物語においては、このようにつなぎ読んでいく作業・相補論的に考えていく作業が面 白いのである。 【第10回 構成論と読みを一体化して面白くする】 第8回では、16段で1〜2段に原点回帰する円環性を述べた。第9回では、マイナーな17・18・19段を、16段あるいは16〜 17段とつないだ。今回とりあげる20段は、1〜2段に原点再回帰する章段である。 1段の舞台は平城京=大和で、20段の舞台も大和である。昔男は、都人として原体験の地に再度赴く。大和に赴く点だけ見 ても、円環性は言える。7〜15段で東下りし16段から帰京してる昔男は、20段において、大和の女と気の利いた歌の贈答をす る。18〜19段では昔男がニセモノ・ベツモノと言える都女に接していたから、16〜17段で友達=紀有常のホンモノのミヤビ に触れてるとすれば、ケガレた空気に触れてしまったようにも読める。 そんな時に1段以来大和に赴くのだから、これは面白い。大和に住む女はほかに1段の姉妹と23段の女がいるが、彼女たち は、田舎女たちのヒナビと比較対照し得る、立派なミヤビをもっている。20段の大和の女も、1・23段の女たちと一括りにし ていい。とすれば、ミヤビに触れるという点でも、1段に円環することになる。そして、大和ではないけれどやはり没落の地 に住む2段の女も、ミヤビ女である。ミヤビに触れる原点再回帰は、1段と20段にとどまらず、1〜2段と20段で見なければな らない。 原点回帰・原点再回帰の円環性については、ここまでうまく読める。だから、とことん、どう読めるかに集中しよう。 なお、この女の返歌を否定的に読む研究者もいる。微妙な歌ゆえそれもまた可であるし、その読みで他章段との関係を深 めたり広げたりもできるのだが、上記の構成論を成立させるには肯定的に読まないといけないため、ここでは肯定的に読む。 構成論と読みを一体化して面白くするとは、そういうことなのである。 【第11回 構成はアルものではなくツクルもの】 今回とりあげる構成は、行動力の弱さ/強さを読める21段/22段に、時間に対する耐性の強さ/弱さを読める23段第一・二部 /第三部・24段が積み重なる、という積層構造である。チャート式で積み重なる、と読む。 21段は、別れた夫婦がヨリを戻しかけて結局も戻らなかった話である。21段で歌を贈答する男女は、ともに相手の出方ま かせで、優柔不断かつひ弱。行動力など、ない。 一方の22段は、男女とも単純でストレートな力強さをもつ。「はかなくて絶えにける仲」の男女が、互いを忘れられず、 愛情表現を交わし合う。歌の後には、「とは言ひけれど、その夜往にけり」とある。これは、歌だけでなく、すぐ行動に出 たということ。「とは言ひけれど、その夜往にけり」は、言葉レベルに終始し、関係修復のための行動に出ることもなかっ た21段へのアンチテーゼとも読める。その後、二人は愛の深さをオーバーに詠み合い、最後は 「いにしへよりもあはれに てなむ通ひける」間柄になる。 つまり、21段/22段で比較対照できるのである。 この21段/22段をベースに、23段第一・二部/第三部・24段23〜24段が積み重なる。後者で注目すべきは、時間、あるいは、 ミヤビ、あるいは、愛。 23段では、昔男の幼馴染みである大和の女と、愛人の河内の女が比較対照される。大和の女は、 都人の血を引き、旧都に住む準都人。ミヤビの有資格者とも言える。それゆえ、長い時間を経ても、ずっとミヤビなままの ようである。都以外に住もうが、貧しくなろうが、浮気されようが、そう。昔男を愛しつづけてもいる。以上が、第一・二 部。第三部から詳述される河内の女は、生来の田舎人ゆえ、すぐにミヤビのメッキがはがれ、ヒナビ丸出し。昔男をじっと 待てず、イラついてもいる。23段は、第一・二/三部で、時間に流されずに耐える静的な強さとその対照例を描いている、と 読める。また、彼女たちの優/劣は、準都人/田舎人という設定の段階で実は結論を予想し得る。 24段は、23段第三部に似ている。河内の女に近い、昔男を三年間待ちきれなかった女の話である。「三年を待ちわびて」 耐えられなくなり、そこらのヒナビ男に乗り替えようとしたのは、「片田舎」の女。ちなみに、彼女も、河内の女も、ミヤ ビ男である昔男には、もう振り返ってはもらえない。 要するに、23段第一・二部/第三部・24段で比較対照できるわけである。伊勢物語は前者をプラス例、後者をマイナス例 とするから、勧善懲悪ならぬ勧ミヤビ懲ヒナビとも言い得る。 行動力の弱さ/強さを読める21段/22段と、時間に対する耐性の強さ/弱さを読める23段第一・二部/第三部・24段は、この ように積み重なる(弱さ/強さ→弱さ/強さあるいは強さ/弱さ→強さ/弱さでなく、弱さ/強さ→強さ/弱さになる点のみ注意)。 伊勢は、こうやって読者各々が自ら構成をツクルものであり、そこが魅力でもある。少なくとも伊勢においては、正しい構 成がただ一通りアルのではない、と筆者は考えている。 【第12回 ミヤビを損なわないギリギリの感情表出】 23段のヤマ場は、ヒロインの大和の女がとても念入りに化粧して歌を独り詠むシーンである。愛する昔男が隣国河内に愛 人をつくり、その女のもとへ通う状況下、大和の女は、普段どおりに昔男を送り出し、そして、「いとよう化粧」するので ある。この化粧には、昔男に見せて愛をとり戻そうという実利目的が認めらない。昔男がまだ河内に着いてもいない頃だか らである。日常の身だしなみにしては、念入りすぎる。 ほかには、夜半に山越えして河内へと向かう昔男に対し、道中の無事を祈願して呪術的化粧をしたとか、魂を招くために 呪術的化粧をしたとか説く呪術説があるものの、伊勢物語の時代にそんな古代的呪術を描くのか疑問である。後者の招魂祈 願説に対しては、私利的な実利目的を読む点も引っ掛かる。もし仮にそう読めば、後述する与える愛=無私の愛もそれに起 因する昔男の感動も吹き飛んでしまうし、第13回で述べるように、第三部の対応箇所ともつなげなくなる。 あと、ついでに言っておくと、大和の女は昔男に見られていることを前提に演技した、と読む説もある。しかし、招魂祈 願説に対するのとほぼ同じ理由で、認めらない。見られていることを知っていた、という情報がない点も、引っ掛かる。 とすれば、ここは、振り返ってほしい気持ちを抑えきれずにしてしまった衝動的かつ自己満足的行為、と読むほかない。 筆者は、そのようにキッチリ一つの答に決めなければならない箇所と考える。 化粧に関してミヤビという点からも説明すると、第11回で述べたとおり、昔男と幼馴染みの大和の女は、旧都に住み、 都人の血も引く準都人で、ミヤビの有資格者である。やがて二人は結婚するが、大和の女は、親を亡くし、経済力を失う。 ここでの結婚形態は妻の親が夫の面倒を見るもので、昔男が河内に愛人をつくったのは、共倒れになるのを防ぐためと思わ れる。ただ、大和の女にしてみれば、貧しくなる上に、昔男の愛まで失いそうになってしまう。そもそも、彼女は、都以外 の没落の地=大和に住んでもいる。にもかかわらず、彼女は、はしたなくなったり、半ばヤケになったりせず、奥ゆかしい まま露骨な感情表出を抑える。感情抑制という意味では、化粧も、ミヤビを損なわないギリギリのラインの感情表出である。 関連して、つづく「うち眺めて」も、意気消沈してぼんやり視線を漂わせる程度ゆえ、悲しみの感情表出は決して露骨では ない。奥ゆかしいままで感情抑制するのは、まさしくミヤビ。準都人あるいはミヤビの有資格者の面目躍如、と言える。 しかも、そうしたミヤビを読めば、他章段とのつながりも見えてくる。たとえば第4・8回で見た昔男の友達=紀有常に は「ボロは着てても心はミヤビ」的内面性が認められたが、筆者は、その16段と23段を同様なミヤビのテーマでつなぐ。ま た、第10回で見たとおり、大和に住む1・20・23段の女たちにミヤビを読み、ヒナビな田舎女たちと比較対照する。 次に、与える愛=無私の愛とそれに起因する昔男の感動について。大和の女の愛は、求める愛ではなく与える愛で、その 独詠歌は、浮気しに行く昔男の山越えを案じるもの。悲しみつつも無私の愛を示すとは、できすぎなほどであり、だからこ そ、こっそり見ていた昔男も感動したと考えられる。 最後に再び呪術説の話に戻り、筆者は、民俗学的な枠組みで人を呪術者に仕立ててしまうより、人の心=文学を読みたい、 とも述べている。 【第13回 細かな言葉にも味がある】 これまでやってきたのは章段どうしのつながりがより深く広くなるような読みばかりであったが、一章段内の細かな言葉 にこだわる読みもおろそかにしてはならない。 23段は、かなりカッチリした構成になっている。第11回で見た、準都人あるいはミヤビの有資格者である大和の女のミ ヤビ/生来の田舎人である河内の女のヒナビ、といった対照性を、今回は細かな言葉レベルで裏づけてみる。 まず、第12回で見た大和の女の化粧と、その対応箇所について。第一・二部に出てくる彼女が「いとよう化粧」してい たのに対し、第三部に出てくる河内の女は「はじめこそ心憎くもつく」る。大和の女の化粧には、昔男に見せて愛をとり戻 そうとする実利目的が認められず、対する河内の女の「つく」るには、化粧も含め、全体的にうわべをとりつくろうニュア ンスが認められる。昔男の愛を得ようとする実利目的があり、加えて、偽りもある。要するに、「化粧」とか「つく」ると かいった似たような行為あげ、言葉を微妙に使い分けて比較対照しているのである(この対照性から考えても、第12回で 見た、大和の女の化粧に実利目的を読む招魂祈願説には、従えない)。 昔男のいる方角を見る行為についても、対応箇所がある。大和の女の「うち眺めて」に対し、河内の女は「見やりて」。 「うち眺」むは、意気消沈してぼんやり眺める行為で、見るというより、視線を漂わす。浮気しに行く昔男の山越えを案じ る独詠歌とともに、その方角を、露骨な感情表出にならない程度の悲しみをまといつつ眺める。対する河内の女は、首を長 くして待ってます、という歌意どおり、昔男のいる方角を「男恋し」と望み見る=「見や」る。ついでに言うと、「見や」 るがもろ見る行為であるだけでなく、「見」てると歌でも詠んでいるし、歌の後でも外を「見」ている。つまり、求める視 線、ひいては、求める愛と言える。大和の女は、求めない視線で、昔男を案じる歌からは与える愛=無視の愛が認めらるか ら、ここも、同じ視線関係の言葉でありながら、言葉の微妙な使い分けでニュアンスを変え、ひいては、昔男に対する愛の 質的相違とも連動させるているのである。 上記のような仕掛けが二度まである23段は、本当に緻密と言うほかない。実は23段は由緒正しい章段ではないのだが、伊 勢物語に組み込まれた23段はこんなにも緻密である。だから、どんな章段のどんな細かな言葉に対しても、細心の注意を払 いたいものである。第12回同様、キッチリ一つの答に決めるべき必要性を、筆者は感じている。 【第14回 昔男に執着する田舎女と田舎女に執着しない昔男】 たとえば第4・8回に出てきた昔男の友達=紀有常のミヤビは「ボロは着てても心はミヤビ」的ミヤビであり、同じ没落 貴族としてそれに共感する昔男のミヤビも同種りものと言えるが、都の中心にいる権力者がもつ本来的なミヤビではない。 しかし、そんな昔男の非本来的ミヤビでも、ホンモノのミヤビにはちがいないため、ミヤビに憧れる田舎女はありがたがる。 もっと言えば、そうならなければならないのが伊勢物語なのである。伊勢において都人である昔男に田舎女が執着しなけれ ばならないは、言わばキマリである。加えて、それと対照的な、田舎女に昔男が執着することはない、というキマリもある。 好例なのが、東下り章段群の10・12・14・15段。昔男が田舎女に本気になれないことを述べた第7回に出てきた章段であ るが、昔男に田舎女が執着するキマリ、田舎女に昔男が執着しないキマリ、の順に改めて内容説明すれば、次のようになる。 10段では、昔男が女に言い寄ると、その母親がムコに迎えたいとシャシャリ出てくる。12段では、盗み出した女が、実にけ なげに昔男をかばう。14段では、ヒナビた女が昔男を一途に想い、15段の女は、昔男に興味をもたれてこの上なくすばらし いと思う。また、第13回で見たとおり、23段第三部の河内の女も昔男にゾッコンで、彼の愛を求める。都人である昔男に 田舎女が執着する図式が見てとれる。そして、昔男は、10・12・14・15段や23段第三部の女たちに対し、決して本気になら ない。10段では、母親への返歌のそっけなさから女に対する本気のなさがわかるし、12段では、女を置き去りにして逃げて しまう。14段の女に対する歌には、社交辞令的ななかに侮蔑があり、15段の結末は、語り手のコメントから察すると、女の 「さがなきえびす心を見て」落胆・侮蔑したと読める。23段第三部の女に対しては、すっぽかしつづける。昔男に田舎女が 執着するのとは対照的に、田舎女に昔男は執着しないのである。 第11回で触れた24段も同様な図式で、内容は次のとおり。「片田舎」で女と暮らしていた昔男は、宮仕えすることにな って上京(「男、片田舎に住みけり」ということさらめいた説明は都人としての過去をうかがわせるし、昔男のモデルは在 原業平だから、正確には帰京と言える)。昔男は、宮仕えするうちに都人として甦ったようで、三年間戻らない。ほったら かされた女はずっと「待ちわび」た末、熱心に言い寄ってきたほかの男に乗り換えようとする(この二人はどこの者とも説 明がなく、地元の田舎人と考えられる)。昔男は、女が初夜を迎えようとする日に戻り、拒否されると、ではその人を大事 にしてあげて、と歌を詠んで、退散の構え。すると、女は、即心変わりし、前言撤回。昔男を引き留めるべく、歌を詠む。 けれど、昔男が振り返らずに去るので、追いかけはじめ、最後は行き倒れになる。第一に注目すべきは、都として甦った昔 男が三年間女をほったらかすのに対し、女はずっと「待ちわび」ている、という点。第二に注目すべきは、拒否された昔男 がすぐ去ろうとし、前言撤回を受けても結局去るのに対し、女は即心変わりして引き留めるべく歌を詠んだり、必死で追い かけたりする、という点。この二点から、昔男に執着する田舎女/田舎女に執着しない昔男、といった対照的図式が見てとれ る。また、24段では、三年間の宮仕えで昔男のミヤビ度がアップしてる点も見逃せない。昔男の歌は、社交辞令的とは言え、 スマートにはちがいないし、詠みぶりもミヤビだった可能性もある。いかにも都人な昔男に執着する田舎女/田舎女に執着し ない、都人として甦った男。そんなよりメリハリの効いた対照的図式になるわけである。 なお、昔男は本当は女を心底愛していて、幸せを願ってキッパリ身を引いたのでは、と反論されるかもしれないので付言 しておくと、そういう読みはしない。昔男は10・12・14・15段や23段第三部の田舎女に対し本気になっておらず、そうした 流れを重視すれば、24段の女だけ愛するとは考え難いし、そもそも、愛する相手を三年間ほったらかすのか疑問である。 【第15回 マイナー章段一気読み】 25〜37段はマイナー章段が多いが、第11回で述べたとおり、少なくとも伊勢物語においては、構成はアルものではなく ツクルものである。前頭葉をフル稼働して、うまい構成を創出したい。 25〜37段では、恋にてこずる25〜27・28〜30段/どん底まで堕ちる31〜34段/強さをとり戻す35〜37段、と三段階に分けて 昔男の成長過程を読める。ままにならない現実に直面し、ストレートな力強さも奥ゆかしいミヤビも忘れた昔男が、その弱 々しい状態から一転して凛々しい昔男へと回帰する、という構成をツクルのである。 25〜27・28〜30段は、25〜27段/28〜30段が繰り返し、かつ、二階建てのように積み重なる。要するに、第11回で見た、 21段/22段に23段第一・二部/第三部・24段が積み重なる構造と同じで、積層構造と言っていい。 25段では、昔男が「色好みなる女」に軽くあしらわれる。26段では、二条后とおぼしき女に他の男が言い寄っているのを 知り、嘆く(二条后については第4回参照)。27段では、興味を失った女が嘆いているのを聞いて、同情する。 二階に相当する28〜30段も、一階の25〜27段と同じ順序で繰り返す。28段では、固く誓い合った「色好みなりける女」に 出て行かれ、嘆く。29段では、厳然たる身分差が生じた二条后らしき女とのままならぬ逢瀬を、恨む。30段では、少しだけ 関係のあった女に、恨み言を言う。30段は、27段とは少しズレるが、関係が途絶えている相手との話という点で積み重なる。 注目すべきは、一階の25〜27段より二階の28〜30段の方が、昔男がより厳しい状況に追い込まれている点。出て行かれる。 手が出せないのに加え、厳然たる身分差が生じる。相手が嘆くのではなく、自分が嘆く。つまり、よりつらくなるのである。 次は、どん底まで堕ちる34段に至る、31〜34段の過程。31段では、言い掛かり的な恨み言を言われるが、事態を収拾する どころか、さらにまた別の女の恨みまで買ってしまう。32段では、かつて関係のあった女とヨリを戻そうと未練がましい歌 を詠み贈るものの、結果は無反応だったと読める。33段では、昔男が田舎女に一本とられ、ミヤビ男の面目がつぶれる。34 段では、「つれなかりける人」に全面降伏し、歌で憐れみを請う。注目すべきは、歌の後にくる最後の語り手のコメント。 「おもなくて言へるなるべし」、すなわち、面目もなく詠んだのでしょう、というこのコメントは後で重要になってくるの で、おぼえておきたい。とにかく、31〜34段は、失態・醜態と読めるわけである。 しかし、昔男は、35〜37段で強さをとり戻し、復活・成長する。ならば、先程の34段最後のコメント「おもなくて言へる なるべし」は、昔男を一喝し、と同時に、自覚・反省する昔男像までも想像させる一文、と読める。堕ちきったがゆえに復 活・成長への足掛かりをつかむ、と。35段における昔男は、不本意ながら関係の絶えた女に、一旦絶えてもまた逢おう、と 力強く歌を詠み贈る。36段では、「忘れぬるなめり」と問い掛けてきた女に対し、力強く愛の永続を誓う。37段には、「色 好みなりける女」が再々度登場。25・28段でしてやられてる昔男は、ここでベンジ。 37段では、オレだけ見てればいい、と ばかりに強気に押す。すると、女も、従順になびいてしまう。 25〜37段は、「色好み」な女にはじまり、「色好み」な女で終わる。そして、その間、昔男は、堕ちていってから復活・ 成長する。マイナー章段でも、つないで読もうとすれば、これだけ面白い構成をツクルことができるのである。ちなみに、 巨視的な見方をすれば、まだまだ面白くなる。第11回の積層構造は、21段の弱さ/22段の強さの上にまた別種の23段第一・ 二部の弱さ/第三部・24段の強さが積み重なったが、25〜37段は、25〜34段/35〜37段で昔男の弱さ/強さを示していると読め るから、弱さ/強さあるいは強さ/弱さの積層構造がつづいていることになる。また、これ以外の構成をツクルことも可能で、 たとえば35〜37段を堕ちたままと読むこともできる。伊勢をつなぎ読むのは、楽しい。 【最終回 終わりの言葉】 筆者は、「配列順相補的解釈シリーズ」(平15・10おうふう刊の専門書『伊勢物語相補論』第二部第二章に当たる)を論 文七本かけて完成させているが、今回は、二本目までのエッセンスを無料公開した。インターネット世代向けに、平易にか みくだいて書いている。 文体や内容に違和感をおぼえた読者がいたとしても、筆者は、信念にもとづいてしたことゆえかまわない、と考える。 また、この「伊勢物語で遊ぼう」は、筆者の長年の研究を『相補論』にまとめる前の、考えをよりシンプルに整理するた めのいい準備運動になった(『相補論』の後で書いた入門書『伊勢物語入門』やなぞり書き本『読めて書ける伊勢物語』に も、役立った)。 本当は持論のつなぎ読み=相補論をアピールするために最終の125段まで書くつもりでいたが、一本目はじめの1段から二 本目終わりの37段まで書いてキリもいいし、どうしても読みたい人はもう三本目以降の論文を読む力が備わっていると考え、 これで最終回とする。 もちろん、この「伊勢物語で遊ぼう」は本にならず、インターネット上のみのものとなった(ただし、無料公開「伊勢物 語全段動画講義」・「伊勢物語対話講義」と連動させることで、出版以上の効果が見込めそうである)。 |