伊勢物語対話講義Z

115-125段をつないで読むとどうなるか

★原文・訳に関しては、注釈書なり関連サイトなりを各自でさがし、適宜ご参照ください。全原文は、「日本語テキストイニシアチブ」でご
  覧になれます(こちら)。
私の本では、『伊勢物語入門』に
116・123・124・125段の原文・訳があります(概略はこちら。全国主
  要都市および地元愛知の図書館にも寄贈しました(リストはこちら)。
 学生のセリフは、本の初出は、重要箇所は(以下同)
よろしくお願いします。

この対話講義Zでは、つなぎ読みの具体例を示します。UVX同様、章段どうしを同一平面上で深く広くつなぎ読み、これまでにない伊勢物語の面白さを感得しましょう。Xにおいて、伊勢の魅力を最大限に引き出すにはもうつなぎ読みしかないんじゃないか、と述べましたが、その気持ちは全くブレてません。今回とりあげるのは、115段から、主人公が臨終を迎える125段まで。伊勢の最後あたりを、つなぎ読みでキッチリ締め括りたいと思います。

では、私が書いた『伊勢物語相補論』第二部第二章第七節、あるいは、『伊勢物語入門』第二部[章を踏まえつつ、説明していきます以下で引く原文・訳も、『入門』によるものです。ちなみに、とっつきやすさで言えば、専門書の『相補論』より、抜粋で原文・訳も載っている、入門書の『入門』の方がいいかもしれません。

まずは、東北地方が舞台の115-116段から

東北地方が舞台なんて、Uで見た14-15段を思い出しますね。でも、14-15段は主人公が若い頃、115-116段は老いた頃。主人公の一代記として読める伊勢の序盤/終盤なら、落差のようなものが認められるんじゃないですか。87段をとりあげたYでは、一代記も後半になると斜陽編に入るってことでしたから、そんな予感がするんです。

いいとこついてますね。

主人公は、14段で、とんでもなくヒナビた女に接し、帰京宣言しますが、15段では、内面を見たいと思わせるほどの女に出会います。帰京宣言を一旦棚あげするわけです。しかし、そんな彼女も、最後は、「そんなつまらない田舎者の心を見て、一体、どうしようというのでしょうか」という語り手のコメントでバッサリ切り捨てられます。結局、田舎女たちでは、主人公の真剣な恋の対象になり得なかったのです。田舎否定=都至上主義が徹底しており、主人公のミヤビのアイデンティティーを読みとることができます。

そして、一代記序盤の14-15段を一見繰り返すかのようなかたちで、終盤の115-116段がきます。115段では、帰京宣言が出て、116段では、それを撤回する展開になります。15段とちがい、本当に撤回しちゃうところがミソ。もっとも、東北地方が舞台のままでは困るので、その後の章段における主人公はいつの間にか帰京しちゃうんですけど、とにかく116段では、都の恋人に宛てて無沙汰を歌に詠み、「何事もみなよくなりにけり」との言葉も添えています。この言葉、
田舎住まいをもよしとする、肯定なんじゃないでしょうか。7-15段の東下り章段群などで田舎否定=都至上主義を頑なに貫いてきた主人公も、老いて、現実を受け容れるようになったんですね。つまり、終盤の116段にある「何事もみなよくなりにけり」は、一大転機を示す要注目の言葉と読みたいところなのです。115-116段では、序盤の14-15段と比較対照し、ミヤビのアイデンティティー喪失に至る落差を読みましょう

14-15段では、田舎および田舎女に対する侮蔑がハッキリ認められました。それが115-116段ではどうなるのかも、気になります。

非常にいいとこついてますよ。実は、そうした侮蔑が、115-116段には認められないんです。これも、今述べた肯定と関連づけることができます。もうそれでいいから侮蔑もしない、ってスタンスなんでしょう。

なるほど。とすれば、116段が要注目ってことも一層頷けますし、すごく面白い章段なのかな、とも思います。ところで、この章段、注目されてるんですか。

されてません。116段を含む108段から122段までは、あやしげで由緒正しくないマイナー章段ばかりがつづくため、従来の注釈書は注目していません。オマケ程度に考えているかのような印象を受けます。それに、章段どう しを積極的につなぎませんから、前半/後半あるいは序盤/終盤の落差、といった読みの深まり・広がりも見えてきません。116段なんて、節目となる要注目の章段なのに、まるでノーマークです。もったいない限りでしょ。従来の注釈書が軽視するマイナー章段も、つなぎ読みでは重視すべき章段になることが多々あります。これはU・V・X・Zの章段全般に言えることですし、ひいては、伊勢全般にわたって言えることです。つなぎ読みの提唱者である私が流れを変えねば、と思います。そうやって、もったいないと感じられるような読みを減らしていければいいんですが。

じゃあ、次の117段も、重視すべき章段なんですか。117段は、主人公をさす言葉が見当たらない、特異な章段ですよ。住吉大社に天皇が行幸する→「岸の姫松」の歌が詠まれる→ずっと天皇を祝賀していたとの歌を神が返す、ってだけの話です。

117段も、要注目の章段です。いいですか。116段で描かれるのは、妥協したしがない主人公。一方、117段で描かれるのは、神に祝賀される至上の天皇。117段という対照例によって、116段の惨めさが際立つじゃないですか。だから、重視すべき章段なんです。

118段以降は、どうですか。

118-123段を一まとまりと見なせば、残るは、事実上最終的な総括である124段と最終最期の125段のみになります。124-125段はつづく下に譲って、この上では、118-123段のつなぎ読みまでを具体的に示すとしましょう。

118-123段は、118段/119段→120段/1211段→122段/123段とつなぎ得て、各前段/後段は、想っている相手とはうまくいかない/どうでもいい相手には想われる、と読めます。特に重視すべきは三巡目後段の123段で、
さっきの116段がミヤビのアイデンティティー喪失なら、123段はイロゴノミのアイデンティティー喪失と言えるでしょう。主人公が「だんだん飽き気味に思うようになった」女にまで妥協するんですからね。また、彼女が住んでいるのは、歌によれば、野となるような、あるいは、鶉【うずら】がいるような、深草の地。一言で言えば、田舎です。田舎女に妥協するってことは、ミヤビのアイデンティティー喪失の要素も認められます。もちろん、123段でも、116段同様の落差を読むべきです。

三巡目後段の123段のオチ=妥協はわかりましたので、そこに至る122段までのプロセスをもっと詳しく説明してください。

了解です。

118段における主人公は、まだ関係していたいと思われる女に連絡をとり、つれなくされます。一方、119段では、主人公の方から関係を絶ったと思われる女が、主人公を想っています。一巡目前段/後段は、想っている相手とはうまくいかない/どうでもいい相手には想われる、って図式で読めるでしょ。

120段における主人公は、ウブそうな相手がほかの男と通じていたことを知り、難じます。難じるくらいだから、想ってる相手ではあるのでしょう。121段は、主人公はチョッカイ出しただけなのに、相手がすっかりその気、と読めます。二巡目前段/後段も、想っている相手とはうまくいかない/どうでもいい相手には想われる、って図式と読み得ます。

122段における主人公は、約束を破った相手に対して嘆き、無視されます。これが、想っている相手とはうまくいかない三巡目前段。そして、前述の123段がきます。「だんだん飽き気味に思うようになった」女とは、どうでもいい相手にほかなりません。この三巡目後段が一・二巡目後段とちがうのは、そんな相手の想いを受け容れ、妥協してしまっているところ。やっとオチがつくわけです。118段/119段→120段/121段→122段/123段をまとめるなら、A/B→A'/B'→A''/B''とつなぎ、A→A''→A''のプロセスでは追い求める困難を読み、B→B'プロセスでは安易な道が一方にあることを読む。そして、そう読んでいけば、追い求めるをやめて安易な道に妥協するB''が、オチとしてキマります。そんなふうにつなぎ読んでみては、どうでしょう。

ありがとうございました。下につづきます。
よろしくお願いします。

先程の上では、115-125段のうち、123段までを具体的につなぎ読みました。この下では、事実上最終的な総括である124段と最終最期の125段をとりあげ、124段のところでは、116・123段とつなぎ読む関係で、116・123段を振り返ることもします。

なお、上同様、私が書いた入門書『伊勢物語入門』を踏まえ説明していきますが、原文・訳は、124段が第一部T章、125段が第二部[章と分かれていますので、ご注意ください。また、より詳しく知りたい場合は、同じく私が書いた専門書『伊勢物語相補論』第二部第二章第七節をご参照ください。

では、116・123段を振り返っておきます。116段における主人公は、都の恋人に宛てて歌を詠み、「何事もみなよくなりにけり」との言葉を添えます。この言葉、田舎住まいもよしとする、どうでもいいや的妥協と読めるでしょう。ミヤビにこだわってきたのに、ヒナビでもいいや、となる。つまり、ミヤビのアイデンティティー喪失です。一方、123段における主人公は、イロゴノミの道で、追い求める困難より、安易な妥協を選びます。すなわち、イロゴノのアイデンティティー喪失です。また、田舎女に妥協するので、ミヤビのアイデンティティー喪失の要素も認められます。私は、116・123段におけるそうしたミヤビ・イロゴノミのアイデンティティー喪失を、124段の総括につなごうと考えます。

あのー、124段がどんな話なのかも気になりますけど、124段がなぜ『入門』第一部T章にあるのかも気になります。『入門』では、第二部につなぎ読みの具体例が示され、上記116・123・125段はその終章=[章にあります。124段だけなぜちがうんですか。内容と併せて、説明してください。

了解しました。第一部は、伊勢を読む前に知っておきたいことを説明する、言わば前置きです。その序章=T章で124段をとりあげたのは、伊勢のかわかりづらさtが端的に示されているからです。「昔、男、いかなりけることを思ひける折にか、詠める」とあり、次に「思ふこと、言はでぞただにやみぬべき。我と等しき人しなければ」という歌がきて、終わり。主人公がどんな状況で歌を詠んだのか、何を思っていたのか、全くわからない上に、124段の歌を訳すと、「思っていることは、口に出さず、そのまま心の奥底にしまっておくのがいいのです。自分と同じ人なんていないのですから」となって、なんともわかりづらい

説明不足という伊勢の文体的特徴が、端的に示されてますね。伊勢のわかりづらさを示すには、確かにもってこいだと思います。けど、第二部[章でも、124段の歌には言及してるんでしょ。原文・訳は再度示さないとしても、事実上最終的な総括と読むくらいなんだから。

ちゃんと言及しています。

じゃあ、どんなふうに言及してるんでしょう。もし第一部T章の直訳的な訳を振り返るだけだとしたら、拍子抜けです。事実上最終的な総括なのに、直訳的に訳すのみで先に進まないのでは、らしくありません。


第二部[章は114段→116段→123段→125段と進むんですが、125段直前では、114段のバランス感覚喪失・116段のミヤビのアイデンティティー喪失・123段のイロゴノのアイデンティティー喪失を踏まえて124段の歌に言及し、歌意を「崩壊してしまった情けない自分を語る気力はもうないけれど、もしわかる人がいたら察してください」と示し直しています。崩壊とは、言うまでもなく、116・123段におけるミヤビ・イロゴノミのアイデンティティー喪失、および、ここでは省略した114段のバランス感覚喪失をさします。要するに、第一部T章では読みの深まりも広がりもない直訳的な訳だったのを、つなぎ読み的に読み直しているわけです。

なるほど。まず、第一部T章では、124段の歌を直訳的に訳す。次に、第二部でつなぎ読みの具体例をいろいろ示しておいて、[章の125段直前で124の歌に言及し、つなぎ読み的に読み直す。すると、124段の歌を例に、つなぎ読み導入前の第一部T章/導入後の第二部[章で、読みの深まり・広がりがちがうことを印象づけられる。使用前/使用後、みたいにそういう目論見があったんでしょ。

正解です。確かにそうした目論見はありましたし、今でも、あれはあれでよかったと思っています。

でも、成果をあげられたかとなると、唸ってしまいます。『相補論』や『入門』、さらには、『入門』をさらにわかりやすくしたなぞり書き本
『読めて書ける伊勢物語』など、出版はしてみたものの、出版だけでは限界があるようです。『入門』では、第二部でつなぎ読みの具体例を示す以外にも、第一部でつなぎ読みの必要性・優位性・ルールを説くことに苦心しましたが、思ったような成果はあがっていません。出版のほかには、平成13年11-12月にインターネット博覧会で「伊勢物語で遊ぼう」を連載し、博覧会終了と同時に研究室のサイトに移しました。しかし、影響力という点では、空振りだったと思います。

もちろん、まだまだ頑張る気でいますから、こうやって対話講義をアップし、「遊ぼう」を全面改訂して、現状打開をねらってはいます
。また、Vで述べたとおり、伊勢全段にわたる配列順第二つなぎ読み・第三つなぎ読み=可変論も完成させ、いつになるかはわかりませんが、研究者向けに論文化するつもりでいます。

崩壊する主人公とは反対じゃないですか。ちょっと期待できるかもしれませんよ。

いやいや、世のなか甘くはないでしょう。どこまでちゃんとつきあってもらえるか、甚だ不安です。

それに、Uで述べた、
ブツブツ・バラバラ・スカスカな伊勢は、完成された既製品ではなく、組み立てるのを楽しむ組立式ブロックととらえるべき、というつなぎ読みのコンセプトを周知するのは、結構困難なことのようです。たとえば、恣意【しい】的に感じられて当然なつなぎ読みに対し、恣意的な読みだ、などと述べてしまう人がいます。唯一無二の作者の意図をさぐるスタンスがいかなる場合でも絶対的正道だ、と信じる人なんでしょうか。あるいは、つなぎ読みのスタンスを一旦理解し、全体的に納得した人でも、時として立ち位置がブレて、作者の意図をさぐるスタンスから、でもここのところは恣意的な読みだ、とか述べてしまうことがあります。詳しく説明できる授業や講演ではまず全員が理解してくれるとは言え、つなぎ読みのコンセプトを奇異に感じる人がいることや世間一般になかなか浸透していかないことは、まぎれもない事実です将来、可変的バリエーションを示す第二つなぎ読み・第三つなぎ読みを発表できたとしても、今度は、いろんなこと言って田口は変節漢だ、なんて否定的感想が出てくるかもしれません。

そもそも、
今は現状打開に向けて頑張っている私だって、いつか主人公みたいに崩壊する可能性がないとも言いきれません。頑張り抜くつもりではいますが、万一崩壊してしまった時には、きっと、「崩壊してしまった情けない自分を語る気力はもうないけれど、もしわかる人がいたら察してください」って気持ちになるんじゃないでしょうか。

思うようにいかない世のなか、自分を負け組みと考える人は少なくないはず。とすれば、124段の歌は、非常に普遍的で大勢が同化できそうな歌と言えそうです。やっと124段の歌に戻ってきましたね。

そのとおり、実によくできた歌です。現に、私にだって当てはまる可能性はあるかもしれないんだから。

それでは、最終最期の125段の説明をお願いします。

わかりました。125段も、124段と同程度の情報量です。「昔、男、患ひて、心地死ぬべく覚えければ」とあり、「遂に行く道とはかねて聞きしかど、昨日今日とは思はざりしを」という歌で締め括られます。歌の訳は「 死出の道は誰もが最後に行かなければならない道と前々から聞いて知ってはいましたが、それが昨日今日のこととは思ってもいませんでしたのに(私にも最期の時がきたようです)」というもので、直訳的はあるものの、解説でその先に進んでいます。125段の歌は突然死のように詠まれているけれど、本当は必然的な死と理解すべき、なんてことを解説しているのです。

突然死ならぬ必然死ですか。

そうです。私は、114・116・123段の崩壊過程をつながなければ、125段の歌は何を読んだことにもならない
、と思っています。精神的に崩壊すれば、必然的に肉体的な崩壊を迎えなければならない、とつなぎ読むわけです。もっと言うと、主人公は、ミヤビとかイロゴノミとかいった理念の化身だからこそ、精神的に死ぬとすぐ肉体的な死が訪れるんでしょうね。

以上、いかがだったでしょう。伊勢の最後あたりをつなぎ読みでキッチリ締め括る、ってことがこのZの目標でしたが、達成し得たのではないかと思います。

ありがとうございました。

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