伊勢物語対話講義X

60-63段は章段を個別に読んでいいか

★原文・訳に関しては、注釈書なり関連サイトなりを各自でさがし、適宜ご参照ください。全原文は、「日本語テキストイニシアチブ」でご
  覧になれます(こちら)。
私の本では、『伊勢物語入門』に
62・63段の原文・訳があります(概略はこちら。全国主要都市および地
  元愛知の図書館にも寄贈しました(リストはこちら)。
 学生のセリフは、本の初出は、重要箇所は(以下同)
よろしくお願いします。

この対話講義Xでは、UVZ同様、つなぎ読みの具体例を示します。章段どうしを同一平面上で深く広くつないで読めば、これまでにない伊勢物語の面白さを感得できる、と私は考えます。しかも、Vで具体的に示したとおり、つなぎ方は一通りではありません。つなぎ読みの提唱者として言わせてもらえば、伊勢の魅力を最大限に引き出すにはもうつなぎ読みしかないんじゃないか、とまで思っています。

じゃあ、つなぎ読みは世間一般に浸透してるんですか。あるいは、浸透しそうなんですか。

痛いところをつかれました。悔しいですが、私のつなぎ読みが浸透する可能性は低いかもしれません。つなぎ読みの是非以前の問題として、つなぎ読みと相容れない読み方が浸透していますし、食わず嫌いも少なからずいます。つなぎ読みをメジャーな媒体で紹介することも困難ですし。

Tでは、三段階の成立過程モデルに則して読む三段階成立論をとりあげましたよね。三つとか二つのグループごとに読んだ上で、古い章段から新しい章段にかけて質的変化が見られる、なんて説くあの論。確か、信頼性に欠けるとかで、主要注釈書も採用してないとのことでした。あれがつなぎ読みと相容れない読み方だとしたらつなぎ読みと相容れない読み方が浸透してる、とまでは言えないんじゃないですか。

もちろん、三段階成立論の場合も、異なるグループどうしの章段がフラットに並ばず、グループ間に断絶が生じまから、章段どうしを深く広くつなぎ読むあり方とは相容れません。ただ、相容れないのは、三段階成立論だけではないんです。

三段階の成立過程モデルを導入しなくても成立論的時間軸を導入する読み方であれば、やはり、相容れません。たとえば、Tでは、三段階成立論に批判的な注釈書『新潮日本古典集成』の話もしました。三段階成立論に批判的だからと言って、『集成』に成立論的なところがないわけではありません。たとえば、「後人【こうじん】の追加の匂い」「類似の話を増補した」「末の世の迷惑な増補」「後半は更に書き足された」「追加」「敷衍【ふえん】」などと述べてもいます。『集成』のように、古いか/新しいかといった成立論的時間軸を導入し、新しいとする章段を軽視すれば、深く広くつなぎ読める可能性を失いかねません

ちなみに、「末の世の迷惑な増補」と評される章段が、今回とりあげる63段です。63段は老女が主人公に恋慕する特異な話で、私も増補をイメージしていいとは思いますが、でもそんなことはどうでもいいと考え、先に進みます。私が60-63段をとりあげた
『伊勢物語相補論』第二部第一章第一節・第二章第四節や、『伊勢物語入門』第一部V章・第二部W章を、読んでみてください。専門書の『相補論』でも、入門書の『入門』でも、「末の世の迷惑な増補」なんて具合に個別に軽視せず、つなぎ読む上で必要不可欠な章段として位置づけています。

つなぎ読みと相容れない読み方は、ほかにもありますか。

『相補論』第二部第一章第一節や『入門』第一部V章では、注釈書・専門書ではないけれど有名な
『恋する伊勢物語』を批判しています。『恋する』の巻頭には、「互いにつながりのある段もあるけれど、基本的には、一段一段を独立させて読んだほうが、かえって全体を楽しめるのではないだろうか」とか、「登場する『男』はさまざまで、これをたった一人の人間と考えることはできない」とかあって、60段の主人公は60段の主人公、62段の主人公は62段の主人公、といった読みが示されます。「一段一段を独立させ」て主人公を「たった一人の人間と考え」ない『恋する』の読み方は、深く広くつなぎ読むあり方と正反対ですから、当然、相容れません

今回とりあげる四章段のうち、三章段が出てきました。つなぎ読みの提唱者としては、それらを個別に読みたくないんですね。

そのとおりです。それに、『相補論』も、『入門』も、なぞり書き本
『読めて書ける伊勢物語』も、私の本は有名ではありませんから、『集成』『恋する』と直接比べられる章段をとりあげ、伊勢の章段を個別に読むべきか/つないで読むべきか、世間一般に問いたいわけです。

なるほど。では、60段から説明をお願いします。

了解です。60段は、かつて都でともに暮らしたもと妻に対し、主人公が高圧的かつパワフルに制裁する話です。都にいた頃、女は、多忙を理由にかまってくれない主人公に見切りをつけ、もっと誠実に愛そうと言い寄るほかの男に乗り換えて、西国に下ります。やがて、主人公は大分の宇佐神宮へ勅使として派遣されますが、例のほかの男は勅使を接待する役人で、女はその妻になっています。主人公は、女に酌をさせろと命じます。 そして、酒の肴として出された橘の実を手にとって、かつて都でともに暮らしたもと妻の袖の香を思い出します、と歌を詠みます。女は、勅使がもと夫であることに気づき、零落を恥じて出家します。当時の都落ちはとても惨めなことでし たし、Uで見たとおり、主人公自身もつらい東下りを経験していますら、この場面は、表面上はソフトで実は傲慢な、真綿で首を絞めるごとき高圧的復讐劇なんでしょう。一般的な読みも、主人公が零落を知らしめる歌を詠んだために、恥じた女が出家した、というものです。


次は、61段をとばし、62段を説明します。60段とよく似た話なんで、先に説明しておきたいのです。62段は、60段とよく似ていながら、細かく見ると、各もと妻の零落度や主人公の残酷度に差があります。62段のもと妻は、だまされて田舎に下り、給仕係の使用人にまで零落しています。61段で主人公は九州に上陸してますから、舞台は九州と読んでおきましょう。さて、62段のもと妻は、60段のもと妻がそれなりの理由でほかの男に乗り換え、夫人になっているのに比べると、思慮浅く、惨めです。とすれば、もと妻を辱める主人公の歌が60段の時よりストレートかつ強烈になるのも、頷けます。一首目では、昔の美しさはどこへ消え失せたんだ、花をしごき落とした枝だけの桜みたいだ、なんて調子でなじり、二首目でも、自分から逃げ出したくせに、全然マシになってないヤツだ、というような追い討ちを掛けます。主人公、すごいサディストです。こんなパワーで制裁されたもんだから、もと妻は家出してしまい、行方不明になるのでした。

ところで、話は変わりますが、Y =aX+bって方程式、中学校の数学で習いましたよね。

Xに代入する数値に応じて出てくるYの数値も異なる、ってヤツですか。

そうです。60 ・62段で言えば、もと妻の零落度をX、制裁する主人公の残酷度をYとすると、零落度の大きい62段の方が制裁の残酷度は大きくなります。Uで述べたとおり、没落しながら内面を高く保つ、というのが伊勢の根本精神でしたから、さらなる没落を受け容れ、田舎のヒナビに染まりきっている 60 ・62段のもと妻たちは、根本精神に違反する者として制裁の対象になったのでしょう根本精神に違反する者は制裁すべき、という60・62段の図式を一つの方程式とすれば、零落度・残酷度に差のある60 ・62段があるゆえに一つの方程式=図式の存在が明確化する、とも言えるはずです。

確かに60・62段はよく似てて、方程式のたとえも理解できそうです。

でしょ。
60・62段だけをとりあげても、章段どうしのつながりを考えれば、到底個別に読む気にはなれません。少なくとも、私はね。

おっと、これ以上話すと長くなりますから、残る61・63段の内容紹介、および、60-63段の具体的つなぎ読みについては、下に譲ります。同様に、伊勢の章段を個別に読むべきか/つないで読むべきかの問題も、そこで結論を出すとしましょう。


ありがとうございました。
よろしくお願いします。

先程の上では、60段の主人公は60段の主人公、62段の主人公は62段の主人公、といった読みを示す『恋する伊勢物語』をとりあげ、「一段一段を独立させ」て主人公を「たった一人の人間と考え」ない『恋する』に対し、私のつなぎ読みと相容れない、と述べましたそして、この下で、残る61・63段の内容を紹介し、60-63段を具体的につなぎ読んで、伊勢の章段を個別に読むべきか/つないで読むべきかの問題に結論を出す、と予告しました。また
『新潮日本古典集成』が63段を「末の世の迷惑な増補」と評していることにも触れました。私は、63段をつなぎ読む上で必要不可欠な章段として位置づけますから、特定の章段を新しい成立と見なして個別に軽視する『集成』に対しては、つなぎ読む立場から批判せざるを得ません

あのー、わざわざ波風立てることもないように思うんですけど。

先行研究にどんな論があるか把握し、検討・批判した上で、持論を展開する。学問の世界ではそれが正道なので、仕方ありません。たとえば、私が書いた『万葉赤人歌の表現方法 批判力と発想力で拓く国文学』って専門書なんか、副題に「批判力」と入れたくらいですから、もう検討・批判のオンパレードです。それに、検討・批判にしても、持論にしても、気づいてもらえなかったり避けて通られたりするのはよくあることですから、反応はどうであれ、愚直かつ地道に主張しつづけるしかないんです。

三段階成立論を批判した対話講義Tでも、波風立ててましたね。信念にもとづいてるみたいなんで、中途半端なおせっかいはやめて、先に進みましょう。残る61・63段の内容を紹介し、60-63段をどうつなぎ読めるか具体的に示してください。

了解です。私の『伊勢物語相補論』第二部第一章第一節・第二章第四節、あるいは、『伊勢物語入門』第一部V章・第二部W章を踏まえつつ、説明していきましょう。なお、参照するのであれば、専門書の『相補論』より、入門書でとっつきやすく、抜粋で原文・訳も載っている『入門』の方がいいかもしれません。

さて、60・62段は、次のような話でした。かつて都でともに暮らしたもと妻たちが、さらなる没落を受け容れ、田舎のヒナビに染まりきっています。そこに、主人公が都から来訪。伊勢の根本精神は、没落しながら内面を高く保つ、というものなので、根本精神に違反したもと妻たちは、主人公によって高圧的かつパワフルに制裁されてしまう。そういう図式になってるわけです。ちなみに、もと妻の零落度が大きい62段の方が、制裁する主人公の残酷度は大きくなります。これをたとえるなら、Xに代入する数値に応じて出てくるYの数値も異なる、といった一つの方程式=図式があり、零落度・残酷度に差のある60・62段があることで、一つの方程式=図式の存在が明確化する、とも言えます。そんなふうに、60・62段はつなぎ読めるのでした。

では、60段から61段はどうつながり、62段から63段はどうつながるのでしょう。内容を紹介しながら、どうつなぎ読めるか説明していきます。

61段は、60段で制裁するだけの権威が主人公にはある、とフォローしてるように読めます。九州上陸の主人公は、噂の的。簾の内にいる地元の女が、イロゴノミや風流といった権威、 すなわち、都のパワーを主人公に認めています。主人公と女は歌を贈答しますが、ともに気の利いた、機知を交わし合う歌です。女は、田舎女ではあるものの、なかなかやります。そんな女に意識されるのですから、主 人公のイロゴノミ・風流はきっと本物なんでしょう。
60段で制裁するだ けの権威はある、ってことです

62段に対する63段の位置づけも、60段に対する61段の位置づけと共通点があります。60・62段はよく似ていましたから、60段直後の61段と62段直後の63段に共通点があっても、おかしくはありません。主人公の権威=パワーが認めらている点で61・63段は共通し、63段では、よい男の代表格として主人公の名が知れ渡り、老女の憧れの的になっています。

ただし、62段は60段より残酷でしたから、いくら主人公に権威=パワーがあるとフォローしても、後味の悪さは払拭しきれないでしょう。

じゃあ、フォローの第二弾でもあるんですか。

あるんですよ。フォロー第二弾として、憐れみの情も示されていると思います。憐れんでやる相手は、老女です。男を欲していても、いかんせん老女ですから、そのまま口には出せません。そこで、夢語り ということにして三人のセガレに言うと、母思いの三男が、よい男の代表格=主人公を連れて来るのです。情け深い主人公は、憐れんで、老女と共寝してやります。 その後、老女が主人公の家に覗き見に来た時も、老女の幻影が見えると歌に詠み、老女の家へ行こうとします。必死で走っ て帰り、寝たふりをしている老女に対し、主人公は、憐れみの情から再度共寝 してやるのでした。まとめるなら、62段は60段より残酷なため、権威=パワーでフォローするのに加えて、憐れみの情でもフォローし、後味の悪さの払拭につとめる、となります。

63段って、特異な話ですね。『集成』が「末の世の迷惑な増補」と評するのも、理解できなくはありません。でも、フォロー第二弾として憐れみの情も示してる、とつなぎ読めば、存在理由を認められるかもしれません。

そうなんですよ。62段直後に63段がきて、フォローとして機能する。もっと言えば、60段直後に61段がきて、フォローとして機能する。そして、60・62段は、零落度・残酷度に差があるおかげで、一つの方程式=図式の存在を明確化し得る。こんなふうに、60-63段はつなぎ読めるわけです。

もちろん、私のつなぎ読みなら、59段以前とも、64段以後とも、一連のつながりのなかで読むことができます。詳しくは、『相補論』第二部第二節や『入門』第二部をご参照ください。また、Vで述べたとおり、私は、将来、今あるつなぎ読みとはまた別の、第二・第三のつなぎ読みも示すつもりでいます。

伊勢の章段を個別に読むべきか/つないで読むべきかの問題、結論が出ましたね。つないで読むべき、って結論なんでしょ。

はい。個別に読んでつなぎ読まないなんてもったいない、と多くの人に思ってもらえたら、うれしい限りです。もっとも、どう読むかは、最終的には、個人の自由、好みの問題になるでしょうが。ただ、つなぎ読みを知らずにいる多くの人には、こんな読み方もあるのでどっちがいいかご一考を、と言いたいですね。

ありがとうございました。

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