伊勢物語対話講義Y

布引の滝の87段はどう厳密に読むか

★原文・訳に関しては、注釈書なり関連サイトなりを各自でさがし、適宜ご参照ください。全原文は、「日本語テキストイニシアチブ」でご
  覧になれます(こちら)。
私の本では、『伊勢物語入門』に
87段の原文 ・訳があります(概略はこちら。全国主要都市および地元
  愛知の図書館にも寄贈しました(リストはこちら)。
 学生のセリフは、本の初出は、重要箇所は(以下同)
よろしくお願いします。

対話講義Uで、私は、次のように述べました。作者がたくさんいて、最終的編集方針もユルユルな伊勢物語なんだから、作者に遠慮せず自分なりに遊べばいい、と。おまけに、Vでは、章段どうしをどうつないで読むかは一通りとは限らない、なんてことまで述べました。ただし、自在性が特徴的なつなぎ読みにおいても、やりたい放題は認めていません。一見自由に読めそうな箇所でも、一つの答に決められる場合はある、として、23段を対象としたWでは、特定の箇所を厳密に読む必要性を話しました。また、章段内全体の対応関係のなかでも厳密に読むべき、と併せて話しましたこのYは、Wと同じことを、87段を対象として説くものです

予め、87段がどんな内容か、そして、どこを厳密に読むべきか、説明してください。

了解です。私が書いた入門書『伊勢物語入門』第二部X章の原文・訳を踏まえつつ、説明していきましょう87段は三部構成ゆえ三分して話し、どこを厳密に読むべきかも適宜話します。なお、以下の説明についてより詳しく知りたい人は、私の専門書『伊勢物語相補論』第三部第一章第二節をご参照ください。

さて、第一部では、主人公とその兄、および、兄の部下たちが、主人公の所領がある芦屋に集まって、布引の滝へ憂さ晴らしの物見遊山に出かけます。芦屋は当時完全な田舎で、布引の滝は新幹線新神戸駅の裏にある大きな滝です。憂さ晴らしとしたのは、主人公が「ちゃんとした宮仕えとは言い難い、しがない宮仕えをしていた」とあり、なおかつ、兄が布引の滝の前で不遇を露骨に嘆くからです。ついでに言えば、兄の部下たちも、同類と見なしていいでしょう。この一行は、言わば、暗い仲間たちなのです。とすれば、憂さ晴らししようという際に不遇を露骨に嘆くのは、厳禁のはず。にもかかわらず、その禁を兄が破り、こんな歌を詠みます。不遇で流す「涙の滝と、この目の前の滝とでは、一体、どちらが高いでしょうか」、とね。誰かがフォローしなければ、一行がまっ暗になるのは必至です。その時、主人公が歌を詠み、とっさの「機転」で「深刻な空気を払拭」し、「兄を思う優しさ」を見せます

厳密に読むべき箇所というのは、主人公の歌と、それに対する周囲の人々の反応です歌は、「滝の上流で、白玉(大きな水滴の比喩)を貫いている緒を抜いてばらしている人がいるのでしょう。白玉が遠慮なくつづけざまに降ってきますねえ。それを受け止める私の袖は狭いというのに」というもの。反応は、「片方【かたえ】の人、笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり」というもので、かなり補って訳せば、「周囲の人々は、大きな滝と小さな袖がアンバランスで、兄の深刻な歌から一転して拍子抜けするこの歌を、おかしいと思ったのでしょう。そして、そうやって深刻な空気を払拭した男の機転と、兄を思う優しさを褒めて、自分たちは歌を詠むのを控えたのでした」、となります

うーん、確かに、かなり補ってますね。主人公の歌のどこに笑うべき要素があって、どこに褒めるべき要素があるのか。そのへんを厳密に読むと、長々しい訳にならざるを得ないわけですか。

そうです。まずは、どこに笑うべき要素があるか、詳しく説明していきましょう。

私より前に指摘してる注釈書・論文はあるんですが、笑うべき理由の第一は、「大きな滝と小さな袖がアンバランス」な点と考えられます。実は、兄弟が歌を詠む直前には、「こぼれ落ちてくる水滴は、小さなミカンか栗の大きさほどもあ」る、といった前置きもあるのです。大滝だけに、水滴も大粒に仕立てたんですね。しかも、主人公の歌によれば、それが「遠慮なくつづけざまに降って」くる。確かに「アンバランス」で、滑稽でしょ。そして、笑うべき理由の第二は、「兄の深刻な歌から一転して拍子抜けする」点。つまり、緊張→弛緩によって、笑いが増幅されるわけです。

ちなみに、緊張→弛緩に似たこと、および、「深刻な空気を払拭した男の機転」的なことは、有名な注釈書『新日本古典文学大系』にも書いてあります。ひょっとして私がそれを踏まえているととる人がいるかもしれませんので、一応断っておきますと、『新大系』が出たのは平成9年1月で、私の論文が月刊誌「解釈」に載ったのは平成4年6月です。

じゃあ、平成4年より前には、ほかにどのような説があったのでしょう。

主人公が意図的におどけて滑稽さを示し、それを周囲の人々が笑った、とは読まない、いろんな説がありました。たとえば、主人公の歌ではなく、兄の歌の露骨な嘆きを笑った、ととる説。主人公の歌を笑ったととる説では、興味を感じておもしろがったとか、「袖は狭い」というところで暗示される不遇を苦笑したとか。はたまた、反語と見て実際はおかしくないととる説や、主人公の卑下と見て実際はおかしくないととる説なんかもありました。

しかし、状況的・文脈的・用例的に考えて従えないことは、『相補論』第三部第一章第二節に書いたとおりです。

いいですか。憂さ晴らししようって時に不遇を露骨に嘆いた兄と、「袖は狭い」というところで不遇を暗示したかもしれない主人公。そんな嘆きなり暗示なりが、どうして笑うべき要素になり得るのでしょう。状況的に無理だと思います。暗い仲間たちにしてみたら、当然身につまされます。また、主人公の歌を苦笑したというのなら、どうしてそんな歌が褒められることになるんでしょう。文脈的につながりません。加えて、苦笑説は用例的にも苦しいですし、用例的に難ありという点では興味を感じておもしろがったととる説も該当します。そうした用例面からの批判は、国語学者による注釈書『伊勢物語全評釈』に書いてあります。前述した、「アンバランス
な滑稽さを指摘している注釈書ですね。

残るは、実際はおかしくないとする説です。これもダメなんですか。

反語と見て実際はおかしくないととる説と、主人公の卑下と見て実際はおかしくないととる説がありました。前者については、「笑ふことにやありけむ」の「や」は、用例的に考えると反語は苦しく、疑問ととって実際におかしいとする方が自然です。国語学者による注釈書『講談社文庫』『全評釈』が、反語説に対し、文法上無理と述べています。後者については、卑下した直後に称賛の「この歌にめでて」がくるのは、文脈的にヘンです。

そもそも、滑稽さとその笑いを増幅する理由が認められれば、その時点でほかの諸説は消去できますもんね。

そのとおりです。


では、どこに褒めるべき要素があるがあるかに関しては、どうですか。また、その点に関し、イイ線いってるような説はあるんですか。

はじめに確認しておきたいのは、滑稽さやおどけと結び付いた称賛でなければならない、ということです。そうなると、おどけて「深刻な空気を払拭した男の機転と、兄を思う優しさを褒め」た、という読みになるでしょう。それこそが褒めるべき要素、と私は考えます。

ところが、「兄を思う優しさ」的なことを指摘する注釈書はあっても、なぜ笑ったかに関し、
興味を感じておもしろがったとか、反語ゆえ実際はおかしくないととってしまうため、滑稽さやおどけが出てきません。逆に、「アンバランス」な滑稽さを指摘した注釈書・論文は前述のとおりあるものの、こちらだと、深刻な空気を払拭した男の機転と、兄を思う優しさ」的なことが出てこないのです。

なるほど。特定の箇所を厳密に読むというのは、なかなか難しいものなんですね。

それでは、キリがいいのでここで一旦終わり、次の第二・三部については、つづく下に譲ります。


ありがとうございました。
よろしくお願いします。

先程の上では、伊勢物語87段の第一部をとりあげ、厳密に読むべき箇所があることを述べました。厳密に読めば、主人公の歌には滑稽さやおどけが認められますし、それを訳に盛り込めば、
周囲の人々は「深刻な空気を払拭した男の機転と、兄を思う優しさを褒めて、自分たちは歌を詠むのを控えたのでした」、といったものになるでしょう

主人公の歌のどこに笑うべき要素があって、どこに褒めるべき要素があるのか、という問題に関しては、なかなか難しいものなんだなあと感じました。この下でとりあげる第二・三部も同様なんですか。


やはり、パッと見てすぐわかるようなところではありません。ですから、注釈書を見ても、重要な箇所が読み込めてなくてもったいないなあ、と思ったり、章段内全体の対応関係のなかで厳密に読めば第二・三部の重要性がわかるのに、と思ったりします。

では、上同様、私が書いた入門書『伊勢物語入門』第二部X章の原文・訳を踏まえつつ、説明していきましょうより詳しく知りたい場合は、同じく私が書いた専門書『伊勢物語相補論』第三部第一章第二節をご参照ください。

まず、第二部は、次のような話です。一行が布引の滝から芦屋の主人公の家に帰る途中、「失【う】せにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ」、といった状況になります。「亡くなった宮内卿(宮内省の長官)もちよし(人名)の家の前に来る頃に、ちょうど日が暮れ」、そして、主人公が、淋しげな漁火【いさりび】の情景を歌に詠むのです。第二部はたったその程度の話で、一見インパクトに欠けるようにも見えます。

第二部は、サラッと流し読んでしまいそうですね。ところで、どうして「失せにし宮内卿」なんて出てくるんでしょう。

「宮内卿」については、注釈書
『新潮日本古典集成』の指摘がゴール寸前まできていて、惜しいなあと思います。『集成』は、宮内卿の位階が、兄の「衛府の督【えふのかみ】」より「一段上程度」と注記しています。衛府とは警護を担当する役所で、近衛府・衛門府・兵衛府があり、督はそれらの各長官をさします(近衛府は大将【だいしょう】、衛門府・兵衛府は督)。このうち、従三位相当の近衛大将は正四位下相当の宮内卿より上で、従四位下相当の衛門督・兵衛督は下ですから、不遇を嘆くという点では、衛門督か兵衛督、もっと言えば、衛門督より格の低い兵衛督が似つかわしいでしょう。ちなみに、兄のモデル在原行平(818-893)は左兵衛督→左衛門督と経験していて、大抵の注釈書は左兵衛督だったことを注記しています。伊勢のつなぎ読みを提唱する私なら、101段に「左兵衛督なりける在原の行平」とある点に注目し、兵衛督と見ます。とにかく、そんな兵衛督とおぼしき不遇な兄にしてみれば、宮内卿は今と大差ないポストなわけです。そして、ここからが重要ですが、一行は、宮内卿止まりで亡くなった人の家の前まで来て、日没を迎えます。兄も、このまま一生を終えるのかもしれません。

不吉な予感、ってとこでしょうか。

正解です。第一部で不遇を露骨に嘆いていた兄は、主人公の歌によって一時的に慰められはしたものの、言わば、対処療法であって、根治療法ではありません。時間が経てば、当然、また落ち込んできます。そんな折、不吉な予感がして、情景も淋しげになるのです。要するに、第二部は、第一部の一時的慰めを吹き飛ばす暗転の役割を担うわけで、不吉な予感を喚起する「失せにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ」は、第一部との対応関係のなかで厳密に読むべき箇所、と言えるんですよ。

じゃあ、「もちよし」に関しては、どうでしょう。

「もちよし」に関しては、確実なことが言えません。「もちよし」では手掛かりがないため、「もとよし」とか「かちよし」の誤写とする説も、あるにはあります。でも、誤写説は決定力に欠けるし、ちがってた場合目も当てられないので、私は採りません。
ここでは、宮内卿止まりで亡くなった人の家の前まで来て日没→不吉な予感ってことと、それが第一部とどう対応するかってことさえ読みとれれば、もう十分だと思います。

なるほど。次の第三部は、どうでしょう。第二部同様、サラッと流し読んでしまいそうなんだけど重要、って箇所があるんですか。

あります。第三部は、主人公の家で兄を歓待する話です。「その家に仕える女の子たちが浜に出て、浮いた海松(海藻)が浜に寄せられているのを拾」い、それを歌とともに「女方【おんながた】より」兄に出します。歌は「海神が髪飾りにするために大切にしている藻でさえも、これこのとおり、あなたのためには惜しまず分けてくれましたよ」というもので、注釈書では『鑑賞日本古典文学』『伊勢物語全評釈』が長寿祈願の歌ととっています。原文「かざしにさす」の用例から考えて、十分頷ける説です。また、この女は、「その家にいる地元の女」ととれます。地元の女が、精一杯の祝意を込めて、兄を慰めようとしてるわけです。しかし、歌の直後、「田舎人【びと】の歌にては、余れりや、足らずやという語り手のコメントがきて、締め括られます。「田舎人の歌にしては、上出来でしょうか、不出来でしょうか」と訳す箇所です。つまり、第三部最後には、上出来なんだろうけど所詮は田舎人の歌にすぎない、といった冷めたコメントがきて、田舎で田舎人に長寿祈願されたところでうれしくもないことを暗示するのでしょう。

ここで、第一部における主人公=都人の慰めを思い出してください。一時ではあれ対処療法的に兄を救い、周囲の人々の称賛も得ました。逆に、それと対応するかのように出てくる第三部の田舎人による慰めは、都での出世を望む兄にとっては、むしろやるせない虚無感を喚起するでしょうから、第一部の慰めと対応させて厳密に落差を読むべき箇所、と言えます

ちなみに、伊勢においては、田舎否定=都至上主義が徹底しています。たとえば、対話講義Uでは、14-15段の田舎女たちが論外の存在でしたし、Wでは、23段には勧ミヤビ懲ヒナビがありました。Xでも、田舎のヒナビに染まりきった60・62段のもと妻たちは、制裁の対象になりました。もし都以外で真の例外を認め得るとすれば、Vの第一つなぎ読みで類例としてまとめた1・20・23段の奈良くらい。ですから、伊勢の徹底した田舎否定=都至上主義を考えると、所詮は田舎人の歌にすぎないという侮蔑は、あると読む方が自然なんですよ。これは、87段だけを見て言ってることではなくて、他章段も見渡して言っていることです。

だったら、伊勢の価値観はずっと田舎否定=都至上主義のままで、田舎をよしとすることなどないんですか。

次のZでとりあげる116・123段では、田舎および田舎人をよしとして都至上主義を捨てる、ヒナビへの妥協、すなわち、ミヤビのアイデンティティー喪失を読むことができます。主人公が最期の時を迎える125段のちょっと前ですから、そうした精神的な死が肉体的な死をも招くと言えるわけで、とすれば、そのまだずっと手前の87段では、伊勢の価値観は田舎否定=都至上主義のままでいいと思われます。第三部で田舎女に慰められてそれなりにハッピーエンド、田舎人の人情もいいもんだ、なんて読むのは、116・123段との関係から言ってもよくないでしょうね。

さて、ここらでまとめに入りましょう。おみくじにたとえるとわかりやすいかと思います。第一部における主人公の慰めは、一時的対処療法なので、〈気休めにはなる小吉〉。第二部における暗転は、〈縁起でもない凶〉。第三部における田舎人の慰めは、田舎否定が前提にあることを踏まえ、〈うれしくもなく当てにもならない末吉〉とたとえます。

面白いたとえですね。

忘れてならないのは、第一部の〈小吉〉的慰めがあるからこそ、第二部の〈凶〉的予感の暗転や第三部の〈末吉〉的慰めの落差も際立つ、ということです。もう本当に、章段内全体の対応関係のなかで厳密に読むべき、と力説したい気分です。パッと見てすぐわかるわけではないけれど、第一部の慰めと対応させれば第二・三部の重要性がわかって、サラッと流し読みなんてできない、と私は考えます。

なお、このYでは、U・V・X・Zとちがって、隣接・近接章段とのつながりのなかで読むということはしませんでしたが、87段を含むつなぎ読みに関しては、『相補論』第二部第一章第二節・第二章第五節、および、『入門』第二部X章が参考になるでしょう。87段第三部が章段内だけでなく章段群内の締め括りとしても機能していることを述べてますので、読んでみてください。『相補論』第二部第一章第二節や『入門』第二部X章を読んてもらえれば、
やるせない虚無感でハッピーエンドを拒まなければならないことがよりわかるかと思います。そして、主人公の一代記として読める伊勢が、後半になると斜陽編に入っていくことも、『相補論』第二部第二章第五節以降や『入門』第二部X章以降を読み進んでいけば、理解できるんじゃないでしょうか。

ありがとうございました。

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