伊勢物語対話講義U

1-16段をつないで読むとどうなるか

★原文・訳に関しては、注釈書なり関連サイトなりを各自でさがし、適宜ご参照ください。全原文は、「日本語テキストイニシアチブ」でご
  覧になれます(こちら)。
私の本では、『伊勢物語入門』に2・6・15・16段の原文・訳があります概略はこちら。全国主要都市お
  よび地元愛知の図書館にも寄贈しました(リストはこちら)。
 学生のセリフは、本の初出は、重要箇所は(以下同)
よろしくお願いします。

対話講義Tでは、三段階成立論という説をとりあげ、三段階の成立過程モデルが信頼し難いことを述べました。ただし、伊勢物語をどう読むべきかという問題に関しては、このUに譲ると予告しました。

私は、次のように考えます。もし不完全な成立過程モデルに則し、第何次章段はこんな感じ、第何次章段はあんな感じ、なんて読んだら、相当危うい読みになるぞ。それに、
そんなふうに読んで面白いんだろうか。仮に成立過程モデルに則して読んだとしても、それが伊勢にとって真に適した面白い読みになるんだろうか

相当危ういという点は成立過程モデルの不完全さからわかるでしょうから、真に適した面白い読みになるんだろうか、といった点について、具体的に説明していきます。成立過程モデルに則して読むということは、三グループないし二グループごとに読むということです。三グループとは、第一次章段と、第二次章段と、第三次章段。二グループとは、第一・二次章段と、第三次章段。そんなふうにグループ分けしてしまえば、グループ間に断絶が生まれます。すると、異なるグループどうしの章段がフラットに並びませんから、それらを深く広くつないで読もうなんて気にはなりません。

じゃあ、成立過程モデルに則した読みでは、同じグループ内の章段どうしなら、深く広くつなぎ読むんですか。

深く広くつなぎ読んでいる、とは言い難いですね。つづく中と下、あるいは、VXZで具体的な私の読みを示しますが、それらを深く広くつなぐものとすれば、明らかにめざす方向がちがいます。

ちなみに、私の読み方は、相補論あるいはつなぎ読みと命名してあります。専門書『伊勢物語相補論』において提唱したのが、章段どうしを相互補完的につなぐ相補論です。そして、その翌年に出した入門書『伊勢物語入門』では、つなぎ読みと命名し直しました。今後は、わかりやすい方のつなぎ読みで統一することにします。さて、つなぎ読みのコンセプトは、各章段の成立論的時間軸に左右されず、どんな章段どうしでも同一平面上で深く広くつなぎ読む、というものです。章段どうしをお好み焼きのように混ぜ合わせることで伊勢ならではの味を楽しもう、というコンセプトなんですね。つなぎ読むからこそ伊勢ならではの面白さを引き出せる、と私は考えています。つないで読まなければ面白さはわからない、とも換言できるでしょう。

ちょっと質問です。Tによると、伊勢は途切れていてブツブツ、不統一でバラバラ、説明不足でスカスカ、ってことでしたが、そんな章段どうしを深く広くつないで読むなんて実現可能なんでしょうか。

発想の転換が必要です。いいですか。ブツブツ・バラバラ・スカスカだからこそ、深く広くつなげるんです。たとえるなら、伊勢は、完成された既製品ではなく、組み立てるのを楽しむ組立式ブロックと言えます。連続したストーリーがないなら、読者がどうつなげられるか考えればいい。不統一で作者の意図が見えないなら、読者がどう読めるか考えればいい。説明不足なら、 読者がどんな意味を付与できるか考えればいい。深読みさせてくれる、言い換えれば、遊ばせてくれる物語。それが伊勢の面白さだと思うんです。

今度は、私から質問しましょう。伊勢の作者って、誰だかわかりますか。

それは、作者不明なんじゃないですか。各章段の成立事情が一様じゃない、ってことは、いろんな原作者がいる、ってことになりますよね。

そのとおりです。補足説明すると、編集者も一人ではないと考えられますし、書写した人たちもどんどん手を加えたと思われます。たとえば、イタコが作者の霊を呼び出せると仮定してみましょう。伊勢の場合は、きっといろんな霊がボコボコ出てくるはずです。源氏物語の場合は、紫式部の霊が出てきそうですけど。もちろん、伊勢の場合も、最終的には誰かが一つに編集したんでしょうが、その編集方針は、かなりユルユルな、遊びをもたせたものだったと考えられます。要するに、私が言いたいのは、そんな、作者がたくさんいて、最終的編集方針もユルユルな伊勢なんだから、作者に遠慮せず自分なりに積極的に遊べばいい、ということなんです。ユルユルなものをユルユルなまま把握するのではありません。ユルユルだからこそ積極的に遊ぶのです。

でも、そうしたら、やりたい放題の無法状態になっちゃいませんか。伊勢をもとに小説や戯曲を創作する、っていうスタンスであれば、積極的に遊ぶのもアリかもしれません。しかし、注釈書や論文でも積極的に遊んじゃうとしたら、違和感があります。


確かに、無法状態になってはいけませんね。さわりを聞いただけだとやりたい放題に聞こえるかもしれませんが、自在性が特徴的なつなぎ読みでも、やりたい放題は認めてはいません。既にちゃんとしたルールを定めてあります。『入門』第一部X章に、つなぎ読みのルールを三つ示しました
  @自由に読むところは、一つの答に決められないところだけに限定し、一つの答に決められるところは、厳密に読む
  Aつなぎ読みをする際は、物語世界がより深く広くなるように心掛ける
  Bつながりが途切れるような読みは行なわない
というものです。

@について補足説明すれば、WYで具体的に示すように、一見自由に読めそうに見える箇所でも、一つの答に決められるケースはあります。そんなケースでは、厳密に読まないといけません。また、これは、あくまで伊勢を読む際の話。私は専門書『万葉赤人歌の表現方法』も書いてますけど、そこでは、自由には読まず、一つの答=赤人の周到な計算を執拗にさぐっています。伊勢と赤人歌でもケースバイケース、と断っておきましょう。

A・Bについても、補足説明しましょう。もし、部分のみをとりあげ、そこだけ好きに読んでしまったとしたら、他章段とつながらない、あるいは、こことはつながるけれどあそことはつながらない、なんてことになりかねません。全体のつながりを見通した上での読みであってほしい、と思います。

一歩踏み込んで聞きますが、その@からBのルールさえ守れば、いくつものつなぎ読みが存在していいんですか。

複数あってかまいません。かつて、私は、伊勢全段を配列順につなぎ通し、『相補論』第二部第二章第一〜七節にまとめました。章段どうしを深く広くつなぎ通した本格的な読みは、これが最初と言っていいでしょう。実に骨の折れる作業でした。そして、今、私は、第一のつなぎ読みとは異なる、第二・第三のつなぎ読みにとり組んでいます。それらはまだ試作段階なんですが、つなぎ読みが一通りでないことの一端はVで示す予定です。

ただ、最近新たなつなぎ読みにとり組んでいて痛感するのは、何通りもホイホイつなぎ読めるわけではなさそうだ、ってことです。第二つなぎ読みまでならまだしも、第三つなぎ読みともなると悪戦苦闘の連続ですから、挫折する可能性がないとも言いきれません。もし、今、つなぎ読みなんて簡単にできると思ってる人がいるとしたら、必ず実際にやってみてください。深く広くつなぎ読むのは、そんなに簡単なことではないですよ。

では、つづく中では、1-16段のつなぎ読みを具体的に示すとしましょう。

ありがとうございました。
よろしくお願いします。

先程上で予告したとおり、この中とつづく下では、伊勢物語をつなぎ読んだ具体例を示します。範囲は1-16段ですが、それら章段の原文と訳を紹介し、なおかつ、つなぎ読みを実践すれば、相当長くなってしまいます。ですから、以下では、要所要所を大まかに話し、どうつなぎ読めるかに焦点を絞って話します。

なお、参考文献として、
『伊勢物語相補論』第二部第二章第一節、および、『伊勢物語入門』第二部T章があることを、予め紹介しておきます。ともに私が書いた本で、『相補論』は専門書、『入門』は抜粋で原文・訳も載っている入門書です。とっつきやすいのは、『入門』の方でしょうね。

さて、1段はどんな話か知っていますか。

初冠【ういこうぶり】の段ですよね。元服した主人公が奈良に行き、そこに住む姉妹に歌を詠み贈る話です。

そのとおりです。伊勢は、1段の元服にはじまり125段の臨終で終わる、一代記の体裁をとっています。とにかく、1段は、最初の最初、元服したて、とおぼておきましょう。

また、伊勢は、平安時代の物語なのに、京都ではなく、かつての都=奈良を舞台としてはじまります。これは、在原氏のルーツから説き起こそうとしているからと考えられます。主人公のモデル在原業平(825-880)は、祖父が平城【へいぜい】上皇です。上皇は、旧都奈良を好み、京都派と対立します。

薬子【くすこ】の変(810)ですね。で、奈良派の上皇は、京都派に敗れるんでしたっけ。

そうです。1段は、奈良を舞台とすることで、そうした敗北にはじまる歴史を思い起こさせるんですよ。しかも、1段では、「奈良の京」が、「古里」すなわちさびれた旧都と呼ばれます。主人公も没落のイメージを背負っていますから、舞台も、主人公も、ともに没落というイメージで一致します。没落の主人公にピッタリの舞台で、伊勢ははじまるのです。この点も、おさえておきましょう。

あともう一点、注目しておきたいポイントがあります。奈良に住んでいるのは、主人公ですか、姉妹ですか。

住んでいるのは、「いとなまめいたる」と形容される姉妹です。主人公は、奈良にある領地に訪れる立場です。

「なまめいたる」が若々しさを意味するのか/上品さを意味するのかは迷うところですが、ここでは、内面的な美しさを意味しているととりましょう。そうとれば、後述するように、次の2段、ひいては、16段まで、いやいや、伊勢全体へと深く広くつながっていきます。ですから、さびれた旧都に住みながらとっても上品な姉妹、すなわち、没落の地にいながら内面を高く保っている姉妹、と読んでおきます

主人公にしてみれば、そんな美徳あるいは生きる指標を、1段の姉妹から教えられたことになります。つまり、主人公は、元服したてゆえに、教える側にではなく、教わる側にいるんですね。ちなみに、1段では、主人公が、アナタたちにドキドキしています、と歌を詠み贈りますが、その後の進展は描かれません。きっと、どうでもいいことだからでしょう。とにかく、まずは教わる。ここが、注目ポイントです。

じゃあ、主人公は最初の最初に生きる指標のようなものを教わった、と読むわけですか。

そう読みます。

でも、教わったにしては、主人公の生き方にすぐ反映されてないように思います。たとえば、7段から15段の東下り章段群なんかは、どうでしょう。そこには、さっき言われたような気高い美徳か感じられません。学習能力がなかった、とでも読むんですか。

私のつなぎ読みでは、1-2段は原体験章段群となります。まだ原体験の頃の話、ってところがミソです。

2段によれば、相手の女が住むのは京都の「西の京」で、女は「かたちよりは心なむまさりたりける」と形容されます『入門』第二部T章では、「容貌より心がすぐれていたのでした」と訳しました。1段の姉妹につづき、今度は、その女が、主人公に美徳あるいは生きる指標を教える立場になるんですよ。西の区画は東の区画よりさびれていて、没落を意味しますし、内面に関しては、外面より内面がすぐれているとハッキリ明記されます。2段の女もまた、没落の地にいながら内面を高く保つ、という美徳をもっているのです。対する主人公は、アナタを想ってモンモンとしています、と歌を詠み贈ります。もちろん、その後の進展は、どうでもいいので、描かれません。要するに、主人公は、1段同様、没落の地にいながら内面を高く保つ女に惹かれたのです。主人公は、1段につづき、2段でも、現地の女から、美徳あるいは生きる指標を教わった、と読んでおきましょう。

ただし、1-2段の経験は、原体験として主人公の心の奥底に刷り込まれただけと思われます。主人公は元服したての駆け出しですから、まだ頭でハッキリ理解するまでには至ってないでしょう。先回りして言うなら、主人公が美徳なり生きる指標なりを頭でハッキリ理解し、自らのアイデンティティーを確立できるようになる、すなわち、自己確認できるようになるのは、いろんな試行錯誤を経た後の16段になってからです。

たとえば伏流水みたいに、一端伏流してから表にあらわれるんですか。

そうたとえると、わかりやすいですね。今自分さがしなんて言葉があるように、自分がどう生きるべきかは、いろいろ試行錯誤してみないとわかりません。伊勢の主人公が自分さがししたって、別におかしくないはずです。

以上、いかがだったでしょう。上で、私は、なぎ読みであれば、伊勢ならではの面白さを引き出せる、と述べましたが、1-2段だけをとりあげても、章段どうしのつながりを考えれば、こんなに深く広く読むことが可能になるわけです。

では、つづく下では、3-16段のつなぎ読みを具体的に示すとしましょう。

ありがとうございました。
よろしくお願いします。

先程中で予告したとおり、この下では、伊勢物語3-16段をつなぎ読みます。ちなみに、参考文献としては、私が書いた『伊勢物語相補論』第二部第二章第一節や『伊勢物語入門』第二部T章がいいでしょう。『相補論』は専門書ですが、『入門』は、抜粋で原文・訳も載っている、とっつきやすい入門書です

はじめに、1-2段の原体験章段群を振り返っておきます。主人公は、相手の女たちから、没落の地にいながら内面を高く保つ、という美徳あるいは生きる指標を教わりました。しかし、いかんせん原体験ゆえに、まだ頭でハッキリ理解されず、心の奥底に刷り込まれたままです。1-2段の原体験で教わった美徳あるいは生きる指標は、伏流水のごとく伏流し、いろんな試行錯誤を経てから、16段になってやっと表に出てきます

では、3-6段の二条后章段群を説明します。主人公は、あらぬ方向へと進み、失敗します。
主人公にとっては、1-2段の原体験で出会ったような、没落の地にいながら内面を高く保つ者が理想像のはずです。ところが、3-6段にかけて登場するのは、没落とは正反対のお姫様です。名前は、藤原高子【たかいこ】。権力者の藤原氏が、天皇に嫁がせて、一族の繁栄をねらおうとする、大切な持ち駒です。

ちょっと聞いただけでも、1-2段の女たちとは対照的ですね。

そうした対照性を、以下、細かく見ていきましょう。互いの特徴がさらに際立ってきますよ。

まず、高子の住所は、4・5段に「東【ひんがし】の五条」と記されます。4段では、叔母の皇太后邸にいるとも明記されます。ですから、さびれた「西の京」という没落の地にいる2段の女とは、まるで正反対なのです。陰/陽論なんて言えそうですね。

住所につづいて、高子の内面は、どうなんですか。


実は、3段から6段では、高子の内面を褒める箇所がなく、そればかりか、6段には、外面を褒める「かたちのいとめでたくおはしければ」という箇所があります。やはり、外面のみの高子は、1-2段の内面を高く保つ女たちと、まるで正反対です。陰/陽論につづいて、内面/外面論なんて言えるでしょう。一方は、没落の地にいながら内面を高く保つ女たち。一方は、繁栄の地にいて外面のよさだけが記される高子。対照性によって、互いの特徴が際立ちます。こんなふうに読めるところが、つなぎ読みの長所なのです。

さて、没落の地にいながらも内面を高く保つ者を理想像とすれば、高子は理想像ではないことになります。主人公にとっての理想像は、没落している自分が共感できる同朋タイプのはずですから、共感できないお姫様タイプは該当しません。そして、そんなふうに読むと、4段にある「本意
【ほい】にはあらで心ざし深かりける」という箇所も、意味深長になりますよ。直訳すれば、主人公が高子に対し「不本意ながら深く愛した」、となります。ここは何が不本意なのか諸説あるところですが、理想像とどこかちがう相手なので不本意、けれど、試行錯誤する駆け出しゆえ深く愛してしまった、とも読めるはずです。つなぎ読みは、面白いでしょ。

高子を絶対的理想像と思ってたんで、ちょっと意外です。

確かに、従来のヒロイン観を覆しますから、意外に思われるかもしれません。でも、そんなふうにつなぎ読めることも、また確かです。

ついでに、3段にも触れておきましょう。1-2段では、美徳あるいは生きる指標を教える女たち/教わる主人公、といった図式がありました。しかし、その後16段になるまで、主人公が教わることはなくなります。もちろん、かと言って教える立場でもありませんが、とにかく、今度は、自分が没落のなかでどう生きるかがテーマとなります。3段における主人公は、
荒れ果てた家に高子を誘います。歌に詠まれる「葎【むぐら】の宿」は、主人公の家ととっていいでしょう。そう読めば、没落の地にいるのが1-2段の女たちから主人公へ切り替わったことになります。そんな切り替わりまで読んでつないでみると、面白いですよ。

あともう一点、補足説明します。1-2段では、歌を詠み贈った後の進展は描かれませんでした。それは3段も同じですが、次の4-6段を見ると、進展していることに気づきます。高子がよそに隠れて嘆く4段→一時的にうまくいく5段→結局は高子を奪取できない6段。主人公の恋物語が本格的に始動した、という印象を受けます。

次は7-15段の東下り章段群ですけど、東下り章段群における主人公も、あらぬ方向へと進むんでしょうか。

3-6段の二条后章段群では、貴いお姫様にアタックする点と内面を問わない点が、失敗でした。東下り章段群では、貴い方向ではなく、賎しい方向すなわち田舎や田舎女に向き合います。田舎女は、一見、没落のイメージと重なるかに見えます。また、東下り章段群の締め括りとなる15段では、主人公が、東北地方の田舎女に対し、アナタの内面を見たい、と歌を詠み贈ります。内面重視ではあるんです。

でも、やっぱり、失敗なんですね。東北地方シリーズの14-15段に登場する田舎女たちは、もともと低いところにいるのであって、高いところから低いところに没落したのではありません。都風を意味するミヤビも身につけておらず、田舎風を意味するヒナビがあるだけで、特に14段の女は、これでもかというくらい田舎臭く描かれます。主人公をして内面を見たいと思わせた15段の女も、「さるさがなきえびす心を見ては、いかがはせむは」という最後の語り手のコメントで、バッサリ切り捨てられます。『入門』第二部T章では、「そんなつまらない田舎者の心を見て、一体、どうしようというのでしょうか」と訳しました。つまり、田舎女たちの内面は当然ヒナビているわけで、侮蔑すべき対象でしかないので

一方、1-2段の原体験で出会った女たちは、どうだったでしょうか。すぐれた内面=ミヤビを身につけていましたから、ある程度貴い家柄の出で、それが没落してさびれた地に住んでいるものと思われます。こちらは、没落と言えます。住所も旧都や「西の京」ですから、ミヤビの引力圏内です。

1-2段の準都女たちと比べれば、14-15段の田舎女たちは全くベツモノと言えます。当然、理想像などではありません。要するに、東下り章段群においても、没落しているか、それでいて内面を高く保っているか、という基準は、満たされなかったわけです。

次の16段は、どうでしょう。1-2段の原体験章段群のたちに刷り込まれた美徳なり生きる指標なりは、16段になってやっと表に出てくる、とのことでした。16段でも、やはり、1-2段同様、没落し、なおかつ、内面を高く保つ相手が登場するんでしょうか。そして、東国から都に帰った主人公は、その相手から教わるようにして美徳なり生きる指標なりを頭でハッキリ理解し、自らのアイデンティティーを確立すなわち自己確認するんでしょうか。

そう読めるはずです。16段において、主人公は、恋愛対象ならぬ友愛対象の友達と再会します。名前は、紀有常【きのありつね】。有常もまた没落貴族であり、それでいて内面を高く保っています。「貧しく経ても、なほ、昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず」、と明記されるとおりです。『入門』第二部T章では、「貧しく暮らしていても、依然として、昔暮らしぶりがよかった頃の心のままで、世俗的になってもいません」と訳しました。没落のイメージは、住所ではなく経済状態であらわされるものの、1-2段の女たちと本質的に一致します。1-2段と16段は、類例と言えるんですね。

いや、正確に言うと、16段では、没落のイメージも、内面を高く保つ姿も、1-2段よりずっと明確化しています
。この明確化は伊勢の根本精神の明確化でもありますから、没落しながら内面を高く保つ、という根本精神を明言する16段は、伊勢の第二の冒頭・真の冒頭とさえ言い得るのです。言い換えれば、原体験と試行錯誤の15段以前はプロローグだった、とも言えるでしょう。

以上、1-16段の大まかなつながりを、具体的に読んできました。一言で言えば、16段で原体験の1-2段に原点回帰し、自らのアイデンティティーを確立すなわち自己確認する、というつなぎ読みでしたが、いかがだったでしょう。三段階成立論に則して読むより面白いと思ってもらえたら、うれしい限りです。

ありがとうございました。

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