伊勢物語対話講義W

筒井筒の23段はどう厳密に読むか

★原文・訳に関しては、注釈書なり関連サイトなりを各自でさがし、適宜ご参照ください。全原文は、「日本語テキストイニシアチブ」でご
  覧になれます(こちら)。
私の本では、『伊勢物語入門』に23段の原文
・訳があります(概略はこちら。全国主要都市および地元愛
  知の図書館にも寄贈しました(リストはこちら)。
 学生のセリフは、本の初出は、重要箇所は(以下同)
よろしくお願いします。

伊勢物語の章段どうしを同一平面上で深く広くつないで読もう、というのが、対話講義Uにおける私の主張でした。作者がたくさんいて、最終的編集方針もユルユルな伊勢なんだから、作者に遠慮せず自分なりに遊べばいい、とも述べました。そして、その具体例は、UのほかVXZでも示しています。また、Vでは、つなぎ読みが一通りでないことも述べました。もちろん、このWでとりあげる23段も、他章段とのつながりのなかで読むべきですし、そのつなぎ読みも、一通りで満足してしまってはいけません。しかし、今回は、そこまでの作業は行ないません。ちなみに、つなぎ読みについては、私の専門書『伊勢物語相補論』第二部第二章第二節や入門書『伊勢物語入門』第二部U章に譲り、第二・第三のつなぎ読みについては、将来、可変論と命名して発表するつもりです。

じゃあ、今回は、23段について、どんな話をするんでしょう。

Uで述べた、つなぎ読み三つのルールを思い出してください。自在性が特徴的なつなぎ読みではありますが、やりたい放題は認めていません。ルールの第一には、
自由に読むところは、一つの答に決められないところだけに限定し、一つの答に決められるところは、厳密に読む、とありました。WやYで具体的に示すように、一見自由に読めそうな箇所でも、一つの答に決められる場合はあります。そういう特定の箇所を厳密に読む必要性ついて、W・Yで話すのです。また、特定の箇所を厳密に読むだけでなく、章段内全体の対応関係のなかでも厳密に読むべき、ということを併せて話します

なるほど。では、予め、23段の概略をお願いします。

23段は三部構成で、第一・二部と第三部が対照的な関係になります。第一・二部に登場する大和の女のミヤビが、第三部に登場する河内【こうち】の女のヒナビによって際立つ、という図式で、特にキッチリ対応するのは第二部と第三部です。厳密に読むべき箇所は、第二部にあります。なお、大和は、奈良をさします。さびれたとは言えかつての都で、ヒナビた田舎とは一線を画します。一方、大阪東部に当たる河内は、当時完全な田舎で、都風のミヤビもないように描かれます。

それでは、以下、第一部から順にどんな内容か説明し、第二部では、どこを厳密に読むべきかの説明も併せてお願いします。

了解です。『入門』第二部U章の原文・訳を踏まえつつ、説明していきましょう。第一部の舞台は大和で、内容は、都人【びと】の血を引く男の子と女の子が、互いを想い合い、初志貫徹のまま成長して結ばれる、というものです。井戸の前で歌を贈答する場面がよく知られ、「筒井筒【ついづつ】」なんて見出しで紹介してる注釈書もあります。

有名な話ですね。でも、大和に住んでいたとか、都人の血を引いていたとかは、全く記憶にありませんよ。

そうだと思います。だって、舞台が大和だったと判明するのはずっと後になってからですし、都人の血を引くという点に関しても、説明が必要です。第一部冒頭には「田舎渡らひしける人の子ども」とあり、訳は「都から田舎に流れて来てそこで生計を立てている人々のなかに、男の子と女の子がいました」となります。「男の子」が主人公で、「女の子」がヒロインの大和の女です。都人の血を引き、なおかつ、旧都の大和に住む、という箇所は、準都人あるいはミヤビの有資格者であることを示します。ここは重要ポイントですから、しっかりおぼえておきましょう。

次の第二部は、どんな内容なんでしょうか。

第二部冒頭「さて、年頃経
【ふ】るほどに」は、「さて、長年経つ間に」と訳します。ここも、重要ポイントです。第一部から第二部の間に年月が経過している点は、後々重要になってきますから、さっきの重要ポイント同様、しっかりおぼえておいてください。

「さて、長年経つ間に」、大和の女は、親を亡くして経済力を失い、主人公の世話を十分できなくなります。この場合の結婚形態は、妻の親が夫の面倒を見るものです。主人公は共倒れになるのを防ぐため、河内の女のもとに通うようになります。ところが、大和の女は不快なそぶりも見せず送り出します。主人公は、疑います。「異心【ことごころ】ありて、かかるにやあらむ」とあり、訳は「さては、浮気心があるから、こんなに平然としていられるのではないか」となります

さあ、いよいよ厳密に読むべき箇所が出てきます。大和の女がとった行動は、「いとよう化粧【けそう】じて、うち眺めて」とあります。なぜ「化粧をとても念入りに」するんでしょう。また、「うち眺めて」は「意気消沈して、ぼんやりと眺め」ることですが、なぜそうなるんでしょう。厳密な読みが求められる正念場です。

ちなみに、この後大和の女がどうしたかと言うと、山を越えて河内の女のもとへと向かう主人公を案じ、と同時に、悲しみを抱いて、独り歌を詠みます。山越えを案じる点については、原文も訳も省略しますが、万葉集の106・1680・3194番にある歌を見れば、山越えの夫を案じて歌を詠むパターンのあったことがわかります悲しみについては、独詠直前に「意気消沈して、ぼんやりと眺め」ているところからわかるはずです。要するに大和の女の歌は、基本は山越えを案じる類型表現でありながら、浮気する夫を送り出す状況や、独詠直前の描写によって、悲しみも読みとれるようになっているわけです。〈無私の愛〉と悲しみが並存する歌、と言えるでしょう。

だからこそ、隠れて見ていた主人公は、感動するんですよ。主人公は「限りなく愛【かな】しと思ひて」、訳では「このうえなくいとおしいと思って」、もう河内には通わなくなります

うーん、化粧以外の言動に関しては、なぜそうなるのかわかりました。しかし、なぜ「化粧をとても念入りに」するんでしょうね主人公の帰宅時にアピールするためか、あるいは、日頃の身だしなみか。思い浮かぶのは、そんなところです。

主人公の帰宅時にアピールするためとか、日頃の身だしなみとか、確かにそういう説はあります。でも、従えません。実際に見せてアピールするつもりなら、時期が早すぎます。帰宅どころか、まだ目的地にも着いてない時期なんですよ。また、「いとよう」すなわち「とても念入りに」とある以上は、身だしなみを超えた、強い思い入れを読みとるべきです。

ほかには呪術説がありますが、これもどうかと思います。もっと古い時代ならまだしも、伊勢物語の時代にそんな古代的呪術が描かれるのか疑問です。確実な用例をある程度数をそろえて示せるというのなら、まだ一考の余地もあるんですけど。ここは、当時もあり、そして今もある、普通の化粧と読むのが妥当ではないでしょうか。


それに、顔を粧う意味の「いとよう化粧じて」は、第三部に対応箇所があります。第三部「はじめこそ心憎くもつくりけれ」は、「男の愛を得られるか否か不安な最初の頃は奥ゆかしく品【しな】をつくっていたものの」と訳します。全般的に粧う、という意味に、欺くニュアンスが加わってくるんですね。つまり、第二部と第三部では、粧うベースの上に欺くニュアンスが乗らないか/乗るか、といった対照性があるわけです。ですから、そうした第三部との比較対照ができるよう、第二部の化粧は、呪術ではなく、普通の化粧と読んでおきましょう。章段内全体の対応関係のなかで厳密に読めば、そうなると思います。

なお、呪術説には、二種類あります。山越えの無事を祈ると読む説と、相手の魂を招くと読む説です。相手の無事を祈願すると説く前者はまだいい方ですが、私利的な招魂祈願と説く後者にはついていけません。もし仮に大和の女が招魂を祈願するシャーマンだとしたら、〈無私の愛〉も、それに起因する主人公の感動も、吹き飛んでしまうでしょう。また、前述し、つづく下でも後述する、第三部との比較対照が、できなくなります。そして、下で、もっと妥当な答を提示できます。とにかく、下で、私なりの答を示すとしましょう。

あと、ついでに言っておくと、大和の女は昔男に見られてることを前提に演技したんだ、と読む説もあります。しかし、招魂祈願説に対するのとほぼ同じ理由で、認められません。見られてることを知ってた、という情報がない点も、引っ掛かりますし

ありがとうございました。
よろしくお願いします。

先程の上で予告したとおり、この下では、はじめに、伊勢物語23段第二部の化粧の意味について答えます。この化粧は、実際に見せてアピールするにしては時期が早すぎ、日頃の身だしなみにしては思い入れが強すぎます。呪術の類でもないでしょう。では、何か。私の入門書
『伊勢物語入門』第二部U章では、第二部「いとよう化粧【けそう】じて」をかなり補って、「男に振り返ってほしい気持ちを抑えきれず、見せる当てもない化粧をとても念入りにし」と訳しています。ここは、衝動的かつ自己満足的な化粧と読むしかないように思います。厳密に読めばそうなるのではないでしょうか。自由な読みが許されない、一つの答に決めるべき箇所だ、と私は考えます。

第三部は、どうなんですか。上でチョロチョロッとは触れましたが、正式にはまだどんな内容か説明してもらってません。第三部の説明をお願いします。

了解です。以下、『入門』第二部U章の原文・訳を踏まえつつ、第三部を説明しましょう。


確か、第一・二部に登場する大和の女のミヤビが、第三部に登場する河内【こうち】の女のヒナビによって際立つ、という図式があるんでしたっけ。

そうです。主人公は、第二部で大和の女を「このうえなくいとおしいと思って」、もう河内には通わなくなりました。ただ、「たまたま」行ってはみたのです。これ以降が、第三部になります。主人公が見ると、第三部の河内の女は、ミヤビのメッキがはがれ、ヒナビの地金が露出しています。上で述べたとおり、この「はじめこそ心憎くもつくりけれ」は、「男の愛を得られるか否か不安な最初の頃は奥ゆかしく品【しな】をつくっていたものの」と訳し、欺くニュアンスを読むべき箇所です。次の「今はうち解けて」は、「今ではすっかり気を許し」と訳します。そして、主人公の相手になるべき女としてはあり得ない、はしたない行為も描かれます。

そんなわけで、主人公は、完全に足が遠のいてしまいました。河内の女は、主人公を想って「あなたがいるあたりを見ながら待っていましょう」と歌を詠みますが、「度々すっぽかされて時が過ぎていったので」、今度は、「当てにはしないものの、恋しく想いながら過ごしているのですよ」という二首目を詠みます。もちろん、主人公が行くことはありませんでした。

なんか、河内の女がかわいそうな気もしますけど。

確かに、そうかもしれません。勧善懲悪ならぬ、勧ミヤビ懲ヒナビですからね。しかし、伊勢は伊勢なりに二人の女を描き分けていますし、勧ミヤビ懲ヒナビを正当化するための理由も用意しています。上において、章段内全体の対応関係のなかで厳密に読むべき、と述べたとおり、そうやって読めば、描き分けなり理由がちゃんと見えてくると思うのです。

さあ、ここで、上で述べた二つの重要ポイントを思い出してください。一つ目は、第一部冒頭にある、主人公と大和の女が準都人【びと】あるいはミヤビの有資格者である、という点です実は、大和の女/河内の女の優/劣は、もう設定の段階で予想できちゃうわけです。河内の女は、準都人でもなければ、ミヤビの有資格者でもない。主人公と大和の女の間に割り込む余地なんて、はじめからなかったんですよ。

二つ目は、第二部冒頭にある、年月の経過を意味する「さて、年頃経【ふ】るほどに」主人公と大和の女の間には、第一部で結ばれた後も年月が経過していました。今でも「三年目の浮気」なんて言うとおり、年月の経過によってダレてしまったり熱が冷めたりするケースは珍しくありません。事実、第三部を見ると、河内の女は「今ではすっかり気を許し」てはしたなくなっていますし、二首目では「当てにはしないものの」などと詠んで半ばヤケになっています。

では、ここで質問です。第三部において、河内の女が「すっかり気を許したり半ばヤケになったりするまでの時間は、長いでしょうか、短いでしょうか。

大和の女に関する第二部冒頭「さて、年頃経るほどに」に比べたら、短そうですね。第三部でも「度々すっぽかされて時が過ぎていった」ようですが、比較すれば短い気がします。


それでいいと思います。あともう一つ、質問します。第一・二部を通じて、大和の女は、河内の女のようにはしたなくなったり、半ばヤケになったりしたでしょうか。

はしたなくなったという類の箇所はないし、浮気しに行く主人公に対し、山越えを案じてさえいます。でも、こんな場面で〈無私の愛〉を発揮するなんて、カッコよすぎます。デキすぎた話じゃないですか。

伊勢は過度に精神的・理念的ですから、デキすぎた話になることもあるんですよ。

さて、露骨な感情表出の抑制もミヤビなことですから、大和の女の言動はまさにミヤビと言えます。化粧が衝動的かつ自己満足的なものであっても、感情表出としては露骨ではありません。独詠直前に「意気消沈して、ぼんやりと眺め」るところなんかも、その悲しみはそこはかとない感じです。歌に至っては、基本は山越えを案じる〈無私の愛〉の歌ですから、感情をセーブできてもいます。私のもとにいて、と頼むわけでもないし、信頼できない人ね、と当たるわけでもありません。そもそも、大和の女が都以外にいることは没落を意味し、加えて、親の経済力も失っていますから、そんな状況でよくまあ内面を高く保てるもんだ、と感心させられます。対話講義Uの1・2・16段に登場した女たちや紀有常【きのありつね】、あるいは、Vの20段に登場した女なんかと同じく、大和の女は、没落しながら内面を高く保つ者なんですよ。第一・二部を通じて、大和の女には、ミヤビならざる言動がありません。子供の頃からずっとそんな感じなのでしょう。

とすれば、こんなふうにまとめられると思います。第一・二部からわかる大和の女のミヤビが、年月の経過に耐えられる本物のミヤビなのに対し、第三部からわかる河内の女のミヤビは、耐えられないメッキのようなミヤビやはり、章段内全体の対応関係のなかで厳密に読んでいけば、そんな描き分けも、勧ミヤビ懲ヒナビを正当化する仕掛けも、ちゃんと見えてくのではないでしょうか。

じゃあ、〈愛〉に関してはどうですか。二人とも主人公を〈愛〉してると思うんですけど、そこにちがいはないんですか。

いい質問です。大和の女に対しては、上以来〈無私の愛〉という言葉を使ってきました。〈与える愛〉と言い換えてもいいでしょう。しかし、河内の女に対しては、〈無私の愛〉とも〈与える愛〉とも言ってません。それは、河内の女の〈愛〉が〈求める愛〉だからです。河内の女の一首目は、首を長くして待ってます、という歌意ですし、歌以上に象徴的なのは、直前にある「大和の方【かた】を見遣【や】りて」でしょう。ここは、対応箇所が第二部にあります。大和の女の独詠直前にある、見るというよりは〈視線を漂わすうち眺めて」です。第二部「うち眺めて」は「意気消沈して、ぼんやりと眺め」と訳し、第三部「大和の方を見遣りて」は「大和の方角を『男恋し』と望み見て」と訳す。私が何を言おうとしてるか、わかりますか。

うーん、大和の女の「うち眺めて」がモロに見るって感じじゃないのに対し、河内の女の「見遣りて」はモロに見る感じ。そういうことでしょ。

正解です。ちなみに、河内の女の場合、「見遣りて」がモロに見る感じであるばかりか、「見」てると歌でも詠んでいますし、歌の後でも外を「見」ています。要するに、〈求める視線〉の女であり、もっと言えば、〈求める愛〉の女でもある。一方、大和の女は、〈視線を漂わせますから、〈求めない視線〉の女です。そして、歌からわかる大和の女の〈愛〉は、浮気しに行く夫の山越えを案じるという、〈無私の愛〉あるいは〈与える愛〉です。つまり、ここは、
同じ〈視線〉関係の箇所でありながら、〈求めない視線/求める視線〉のちがいを示し、ひいては、〈与える愛/求める愛〉のちがいとも連動させているわけです。

上では、第二部「いとよう化粧じて」と第三部「はじめこそ心憎くもつくりけれ」を、対応箇所としてあげてましたよね。ともに粧う点は同じながら、欺かない/欺くのちがいがありました。その対応関係と、今の対応関係は、よく似てる気がします。

そのとおり。こんな比較対照が、一度ならず、二度まで可能なんです。二人の女の描き分けは細部にまで及び、勧ミヤビ懲ヒナビを正当化する理由になり得ていますもう本当に、章段内全体の対応関係のなかで厳密に読むべき、と力説したい気分ですよ。

以上、いかがだったでしょう。厳密に読むべき箇所がある、ということ。そして、章段内全体の対応関係のなかで厳密に読むべき箇所もある、ということ。そんなことをわかってもらえたら、うれしい限りです。

なお、Yでは87段をとりあげ、このWの23段同様、厳密に読むべき必要性を説きますが、23・87段に関する詳しい参考文献として、私の専門書『伊勢物語相補論』第三部第一章があることを付記しておきます。

ありがとうございました。

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