伊勢物語で遊ぼう第1回

伊勢物語は組立式ブロック


いきなり具体的な内容を論じる前に、何回かかけてぼくの基本方針を述べておこうと思います。

ある時、平安時代を専門としていない研究者に、 こんなこと言われました。 「田口さん、いつまで伊勢物語みたいな単純なものやるの」。 また、 「源氏物語で卒論書くのは難しいだろうけど、伊勢ならなんとかなるでしょ」と言った人もいました。 別に怒っちゃいませんよ。何気なく発せられた言葉だから。 ただ、その時、世間の認識なんてこんなもんかな、と思ったわけです。 ちなみに、ぼくと同じ平安時代を専門とする研究者たちからは、「田口さん、よく伊勢なんかで論文書けますねぇ」とか、 「源氏は誰でも論文書こうと思えば書けるけど、伊勢はそうはいかない、って聞いたことあります」と言われたことがあります (わかる人はわかってるんですねぇ)。

一体、このギャップはなんなんでしょうか。つまり、一見すると簡単そうに見えるけど、いざやるとなると奥が深い、ってことだと思います。馴染みのバーテンダーが言ってましたが、一番難しいのはただの水割りなんだそうです。ぼくは趣味で競技スキーをやってましたが、一番難しいとされる種目は、滑降から回転まで四種目あるうちで一番とっつきやすい大回転なんです。伊勢も同じだと思うんですよ。簡単そうなものだけに、それで差を出すのは難しい。ぼくの研究室でも、よっぽど頭がキレる場合を除いては、竹取物語と伊勢で卒論を書くのは御法度になってます。だって、卒論や論文になると、新見がなくてはならないでしょ。その新見を簡単そうなもので出さなければならないんだから、大変なんですよ。

でも、かぐや姫の竹取に比べたら、まだ伊勢の方がやりやすいし楽しいと思います。なんでかって言うと、伊勢は自分で想像をはたらかせる度合がダントツに高いからです。読者各々の仕事が多いぶん、オリジナルな読みができるわけです。

まず、ストーリーがあるようでないから、自分なりにいろんな話を組み合わせられる。伊勢は百余りの章段から成っていますが、各章段の冒頭は「昔、〜」となっていて一々リセットするから、独立性が高い。プロット=あらすじはかろうじてあるけれど、それとて大した拘束力はない。だから、昔の読者のなかには、組み合わせどころか、配列まで変えてしまった人がいたようです。言い伝えによると、現存する伊勢とは全く配列の異なる伊勢が三本あるいは七本あったそうです。昔は著作権なんてもんがなかったため、かなり自由に改変できたんですね。今それがわかるのは、伊勢とほぼ同時代にできた大和物語。大和のなかに、伊勢と同じ話が配列も組み合わせも変えて収録されています。現代の我々が本の配列を変えることはできませんが、「あの話とこの話は似たことを言っているな」とか、「あの話とこの話を対照させると面白いな」とか、読者各々の頭のなかで自由に組み合わせることは可能です。

また、本文自体がおぼめかす文体で、何を言ってるのか、読者各々が自ら積極的に深読みしていかないとわからない。たとえば、臨終章段直前の124段には、「思っていることは、口に出さず、そのまま心の奥底にしまっておくのがいいのです。自分と同じ人なんていないのですから」という歌が出てきます。「思っていること」がなんなのか、読者は想像するほかないわけです。詳しく書いてないんだから。どういう時に詠んだのかも、わからない。ここまでじゃなくても、とにかく伊勢は多くを語りません。わざと読者の読解力を試すようなこともしますし。想像されることを前提としておぼめかす。だから、読者各々の様々な読みが招来されるんですね。

読者各々が話を組み合わせ、文意も決定していく。まるで組立式ブロックみたいじゃないですか(組立式ブロックの完成形は一つではありませんから、自由度が高い)。で、源氏なんかは、あらかじめほぼ完成されている模型。相対的にたとえるとね。最初の最初に、まずこのことを言っておきます。そして、前頭葉を直撃するような知的感動が得られるわけです。最初の最初に、まずこのことを言っておきます。

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目次
はじめに
第1回 第2回 第3回 第4回
第5回 第6回 第7回 第8回
第9回 第10回 第11回 第12回
第13回 第14回 第15回 最終回
「ダイジェスト版」「伊勢物語動対話講義」
単著専門書『伊勢物語相補論』入門書『伊勢物語入門』なぞり書き本『読めて書ける伊勢物語』
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