伊勢物語で遊ぼう第14回

昔男に執着する田舎女と田舎女に執着しない昔男


たとえば、第48回に出てきた昔男の友達=紀有常のミヤビを思い出してください。没落してるんだけどミヤビのプライド=内面のよさは保っている、「ボロは着てても心はミヤビ」とも言うべき例のやせ我慢的ミヤビ。同じ没落貴族としてそれに共感する昔男のミヤビも同種のものですが、本来的なミヤビかと言えば、そうではありません。本来的ミなヤビは、没落していない、都の中心にいる権力者がもっています。でも、そんな昔男の非本来的ミヤビでも、ホンモノのミヤビにはちがいないため、ミヤビに憧れる田舎女はありがたがってくれます。もっと言うと、そうならなきゃならないのが伊勢物語なんですよ。奉行所で遠山の金さんに桜吹雪見せられた悪人が観念しなきゃならないように、伊勢においては、都人である昔男に田舎女が執着しなきゃならないキマリがあるのです。加えて、それとは対照的な、田舎女に昔男が執着することはない、というキマリもあります。

東下り章段群の10・12・14・15段なんか、好例でしょう。昔男が田舎女に本気になれないことを述べた第7回に出てきた章段ですが、内容説明がなかったり不十分だったりしたので、昔男に田舎女が執着するキマリ、田舎女に昔男が執着しないキマリ、の順に改めて説明します。10段では、昔男が女に言い寄ると、その母親がムコに迎えたいとシャシャリ出てきますし、12段では、盗み出した女が、実にけなげに昔男をかばいます。14段では、ヒナビた女が昔男を一途に想い、15段の女は、昔男に興味をもたれてこの上なくすばらしいと思います。また、前回の第13回で見たとおり、23段第三部の河内の女も昔男にゾッコンで、彼の愛を求めます10・12・14・15段における昔男は都からの来訪者、23段における昔男は都から大和に流れて来た人の子ですから、都人である昔男に田舎女が執着する図式になってるでしょ。そして、昔男は、10・12・14・15段や23段第三部の女たちに対し、決して本気になりません。10段では、母親への返歌のそっけなさから女に対する本気のなさがわかりますし、12段では、女を置き去りにして逃げてしまいます。14段の女に対する歌には、社交辞令的ななかに侮蔑がありますし、15段の結末は、語り手のコメントから推測すると、女の「さがなきえびす心を見て」落胆・侮蔑したと読めます。23段第三部の女に対しては、すっぽかしつづけます。昔男に田舎女が執着するのとは対照的に、田舎女に昔男は執着しないのです。

第11回で触れた、梓弓の段として有名な24段も、同様な図式。こんな話です。 「片田舎」で女と暮らしていた昔男は、宮仕えすることになって上京。いや、「男、片田舎に住みけり」ということさらめいた説明は都から流れて来た過去をうかがわせますし、そもそも昔男のモデルは在原業平ですから、正確には上京というより帰京です。さて、昔男は、宮仕えするうちに都人として甦ったようで、三年間戻りません。ほったらかされた女はずっと「待ちわび」た末、熱心に言い寄ってきたほかの男に乗り換えようとします(この二人はどこの者とも説明がないため、地元の田舎人と考えられます)。で、昔男は、よりによって女が初夜を迎えようとする日に戻り、拒否されると、「じゃあ、その人大事にしてあげて」てな感じの歌を詠んで、退散の構え。すると、女は、即心変わりし、前言撤回。昔男を引き留めるべく、歌を詠みます。けれど、昔男が振り返らずに去るもんだから、追いかけはじめ、最後は行き倒れになります。いいですか。昔男が都人として甦って三年間女をほったらかすのに対し、女はずっと「待ちわび」ています。また、拒否された昔男がすぐ去ろうとし、前言撤回を受けても結局去るのに対し、女は即心変わりして引き留めるべく歌を詠んだり、必死で追いかけたりします。昔男に執着する田舎女/田舎女に執着しない昔男、といった対照的図式ですが、24段では三年間の宮仕えで昔男のミヤビ度がアップしてる点も見逃せません。「じゃあ、その人大事にしてあげて」てな感じの歌は、社交辞令的とは言え、スマートにはちがいありませんし、詠みぶりもミヤビだったかもしれません。いかにも都人な昔男に執着する田舎女/田舎女に執着しない、都人として甦った昔男。よりメリハリの効いた対照的図式になるんですねぇ。

ところで、こんなこと書くと、昔男は本当は女を心底愛していて、幸せを願ってキッパリ身を引いたんじゃないの、って反論されるかもしれません。しかし、ぼくは、そういう読はしません。昔男は、10・12・14・15段や23段第三部の田舎女に対し、決して本気になってませんでした。そうした流れを重視すれば、24段の女だけ愛するとは考え難いですし、第一、愛する相手を三年間ほったらかすでしょうか。

もちろん、ヒューマニズムにもとづいて昔男や伊勢を批判することはできますよ。上記のとおりの昔男像なら冷淡とも言えるし、行き倒れなんて悲惨な結末を用意する伊勢は意地悪とも言えます。けど、昔男に共感・同化し、伊勢の世界にドップリ没入したいなら、「遠山の金さん」を「遠山の金さん」のキマリに従って楽しむように、伊勢も伊勢のキマリに従って楽しむべきなんじゃないでしょうか。実生活ではヒューマニズムを大切にしつつもね。ちなみに、ぼくは、高校まで岐阜の田舎で育ち、大学進学で上京しましたが、田舎出身者を見下す人は今でも好きじゃありません。たまたま伊勢を研究することになってこんなこと書いてますけど、伊勢は伊勢、実生活は実生活、ってスタンスです。念のため、断っておきます。

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目次
はじめに
第1回 第2回 第3回 第4回
第5回 第6回 第7回 第8回
第9回 第10回 第11回 第12回
第13回 第14回 第15回 最終回
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