伊勢物語で遊ぼう第12回

ミヤビを損なわないギリギリの感情表出


前回の第11回では、筒井筒の段として有名な23段をとりあげ、その第一・二部/第三部に時間に対する耐性の強さ/弱さを見ましたが、今回とりあげるのもまた23段。23段のヤマ場は、ヒロインの大和の女がとても念入りに化粧して歌を独り詠むシーンでしょう。愛する昔男が隣国河内に愛人をつくり、その女のもとへ通う状況下、大和の女は、普段どおりに昔男を送り出し、そして、「いとよう化粧」するんで す。この化粧、昔男に見せて愛をとり戻そうという実利目的はなさそうです。だって、見送った後に化粧するんだから、見せて愛をとり戻そうなんて実利目的はないはず。帰宅時に見せるとしたら、時期尚早すぎます。昔男が河内から戻ってくる頃どころか、まだ河内に着いてもいない頃なんですよ。日常の身だしなみって説も、ダメでしょうねぇ。日常の身だしなみにしては、念入りすぎますもん。

ほかには、呪術説があります。夜半に山越えして河内へと向かう昔男に対し、道中の無 事を祈願して呪術的化粧をしたとか、魂を招くために呪術的化粧をしたとか。でも、万葉集の時代ならまだしも、伊勢物語の時代に、そんな古代的呪術を描くのか疑問です。確実な用例をある程度数をそろえて示せるというのなら、まだ一考の余地もあるんですけどねぇ。ここは、普通の化粧でいいんじゃないでしょうか。それに、後者の招魂祈願説に対しては、私利的な実利目的を読む点も引っ掛かります。もし仮に そう読むとなると、後述する与える愛=無私の愛もそれに起因する昔男の感動も吹き飛んじゃいますし、第13回で述べるように、 第三部の対応箇所ともつなげなくなります。ここは、振り返ってほしい気持ちを抑えきれずにしてしまった衝動的かつ自己満足 的行為、と読むほかないでしょう。そんなふうにキッチリ一つの答に決めなければならない箇所だ、ってぼくは考えます。

あと、ついでに言っておくと、大和の女は昔男に見られてることを前提に演技したんだ、と読む説もあります。しかし、招魂祈願説に対するのとほぼ同じ理由で、認められません。見られてることを知ってた、なんて情報がない点も、引っ掛かりますし。

では、化粧に関し、ミヤビという点からも説明しましょう。第11回で述べたとおり、昔男と幼馴染みの大和の女は、旧都に住み、都人の血も引く準都人。ミヤビの有資格者とも言えます。やがて二人は結婚 しますが、大和の女は、親を亡くして、経済力を失います。この場合の結婚形態は、妻の親が夫の面倒を見るものですから、昔男が河内に愛人をつくったのは、共倒れになるのを防ぐためと思われます。ただ、大和の女にしてみれば、貧しくなる上に、 昔男の愛まで失いそうになるわけです。そもそも、彼女は、都以外の没落の地=大和に住んでもいます。にもかかわらず、 彼女は、はしたなくなったり、半ばヤケになったりせず、奥ゆかしいままで、露骨な感情表出を抑えます。感情抑制という意味では、化粧も、ミヤビを損なわないギリギリのラインの感情表出です。関連して、つづく「うち眺めて」も、意気消沈し てぼんやり視線を漂わせる程度ですから、悲しみの感情表出は決して露骨ではありません。奥ゆかしいままで感情抑制するのは、まさしくミヤビ。準都人あるいはミヤビの有資格者の面目躍如、と言えますよ。

しかも、そうしたミヤビを読めば、他章段とのつながりも見えてきます。たとえば、第48回で見た昔男の友達=紀有常には、「ボロは着て ても心はミヤビ」的内面性が認められました。ぼくは、その16段と23段を、同様なミヤビのテーマでつなぎます。また、第10回で 見たとおり、大和に住む1・20・23段の女たちをみなミヤビ女と読んで、ヒナビな田舎女たちと比較対照できると考えます。

次に、与える愛=無私の愛とそれに起因する昔男の感動について。大和の女の愛は、求める愛ではなく、与える愛です。その独詠歌は、浮気しに行く昔男の山越えを案じるもの。悲しみつつも無私の愛を示すなんて、もうできすぎなくらいです。だからこそ、こっそり見ていた昔男もグッときた、となるんですよ。

ところで、最後に再び呪術説の話に戻りますけど、呪術説ってあるもんですねぇ。ぼくは、23段の解釈を、平成4年 6月の「文学研究」誌上に「 『伊勢物語』23段第二・三段の解釈」(平15・10おうふう刊の専門書『伊勢物語相補論』第三部第一章第一節に当たる)と題 して発表しましたが、真正面からとりあげてほしいもんです。

ちなみに、ぼくは、民俗学的な枠組みで人を呪術者に仕立ててしまうこの種の考え方は、概して好きではありません。基本的に、人の心=文学を読みたいんで す。民俗学を国文学にとり入れたのは折口信夫という研究者で、ぼくは系図的には孫弟子に当たるんですが、ぼくにはぼくの前頭葉がある。斬新なことやっ た折口はすごく認めるけれど、だからって他人が敷いたレールの上を歩きたくはない。 学統って言葉がありますが、全く理解できません。ぼくは、先輩国文学者の学説を跡づける、言わば国文学者学をやるためにこの世界に入ったわけではないんです。自分なりの国文学を創出するために、もっと言えば、この過度にギルド化してしまった世界に批判力と発想力で一撃加えるために、入ったんです(平22・3鼎書房刊の専門書『山部赤人の表現方法 批判力と発想力で拓く国文学』あとがき参照)。

なお、折口自身は、この化粧を呪術とは見てないようです。

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目次
はじめに
第1回 第2回 第3回 第4回
第5回 第6回 第7回 第8回
第9回 第10回 第11回 第12回
第13回 第14回 第15回 最終回
「ダイジェスト版」「伊勢物語対話講義」
単著専門書『伊勢物語相補論』入門書『伊勢物語入門』なぞり書き本『読めて書ける伊勢物語』
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