3〜6段のお姫様=藤原高子(後の二条后)の話、
どこかで本文と訳を見つけてきてくれましたか。ペラペラめくって見てください。
ヘンでしょ。伊勢物語を読みはじめてまずつまづくのがここらあたりなんですよ。極端に短い話があったり、いきなり「鬼」が出てきたり。
「鬼」が出てくるなんて、たとえて言うと、ごく日常的な「サザエさん」にいきなりロボットの「ドラえもん」が登場するようなもんですよ。
これをつづけて読む気になってる人より、なんかヘンだと思う人の方が多いんじゃないでしょうか。 第2回で紹介した、 伊勢の章段を成立の早遅を想定することで振り分ける論、思い出してください。 あの論によると、3〜6段のうち、極端に短い3段と「鬼」が出てくる6段(芥川の段として有名)は、最終段階での付加とされています。そうやって見てみると、 ヘンさ加減もなんだか許せてしまうでしょ。便利ですよねぇ。3・6段がどっかからもってきたヘンな章段だという点、ぼくだって、そうだろうなぁ、とは思いますよ。 また、4・5段が伊勢成立時に中核となった正統的な章段だという点についても、認めます。 4・5段の話は、昔男のモデルとなった在原業平の作として古今集に載ってもいます。古今に業平作として載ってるなら、由緒正しいですからね。成立論、一見イケそうな気もしますね。 でも、それでいいか、って聞かれると、頷けないんです。なんでか。理由は二つあります。 まず、その論の段階分けの信頼性が不十分なんですよ。 絶対的に信頼できるんならいいんですけど。たとえ3〜6段の範囲内である程度まで使えたとしても、どうかと思います。ほかでもどこでも使え、かつ、不安なく使えるものでないといけないはず。だから、ここでも、依拠するわけにはいきません。 それともう一つ。読んだぞ、っていう満足感がイマイチなんですね。読むからには感動したいんですよ。 伊勢はどう成立したか、早い成立の章段と遅い成立の章段を比べるとどんな変化が見られるか。って、ちがうでしょ。 ぼくは、それじゃもったいないと思うんです。前々回の 第3回および前回の第4回でとりあげた、「かたちのいとめでたくおはしければ」という外面のよさについての説明、思い出してください。 実は、あそこ、最終段階の付加とされる6段の、しかも後半部の解説の部分にあって、あやしげなんですよ。 だからなんでしょう、成立論的な読みでは、重視されてません。しかし、ぼくはあの説明を積極的に活用してましたよね。 内面/外面の対照性、女のタイプ三分類、なんて具合に話を深化させつつ広げていった。あれを活用して、話を面白くしていった。 後の人が勝手に付け足したあやしげな部分かもしれないけれど、活かせるもんは活かしたい。使わない手はないでしょ。そうやって、どんどん面白くすべきですよ。 だから、ぼくに成立論は必要ないんです。たとえるなら、伊勢は、お好み焼きみたいなもの。 古い干しエビも、しなびたキャベツも、割と新しい豚肉も、新鮮なタマゴも、みんな混ぜる。混ぜる、食べる、うまい、というわけです。 なお、以下のようなこと考える人がいるかもしれませんので、補足しときます。 「かたちのいとめでたくおはしければ」って、実はよく考えられて付け足されたものなんじゃないの、最終段階の編作者がキレ者でさ、なんて具合に。 実は、ぼく自身、「配列順相補的解釈シリーズ」(平15・10おうふう刊の専門書『伊勢物語相補 論』第二部第二章に当たる)をはじめる前はそんな考えだったんです。でも、読者のぼくが最終的編作者の意図を追い越してる可能性だってある。いや、追い越してるケース、あると思うねぇ。 だから、どれほどのキレ者かわかんない最終的編作者なんかの手柄にはしたくないんです。 特に、自分がうまいこと深読みできて満足してる時は。それに、どっちの手柄か最終的編作者と論争するなんて、土台無理な話でしょ。だったら、読者としてどう読めるか、ってだけでいいんじゃないでしょうか。 ★ダイジェスト版はこちら。 ★伊勢の全原文は、「日本語テキストイニシアチブ」でご覧になれます(こちら)。 ★記事の無断転用は禁じます |
目次 | |||
はじめに | |||
第1回 | 第2回 | 第3回 | 第4回 |
第5回 | 第6回 | 第7回 | 第8回 |
第9回 | 第10回 | 第11回 | 第12回 |
第13回 | 第14回 | 第15回 | 最終回 |
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