伊勢物語で遊ぼう第7回

内面/外面論をしぶとく引っ張る


ぼくが勤めている愛知教育大学は、愛知県の刈谷市というところにあります。豊田市よりは西、名古屋市よりは東に位置します。 大学のすぐ裏にはかきつばたの群生地があり、校章もかきつばた。そうです。各句の頭をつなぐと「かきつばた」になる、あの有名な歌の舞台になったあたりです。 伊勢物語では7〜15段が東下り章段群になっていて、 この歌はそのなかの9段第一部にあります。

   らごろも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ

教科書にも載ってたでしょ。詳しく知りたい人は、「三河八橋の伊勢物語旧跡案内」をご参照ください。

さて、昔男は、6段でお姫様=藤原高子(後の二条后)をその兄たちに奪われた後、 都にいたくなくなって、7〜15段で東国へと下ります。今とちがって、当時は都以外田舎でした。で、都人の都至上主義&田舎否定も、今と比べようがないほど甚しかった。だから、伊勢の東下りを、松尾芭蕉の『奥の細道』なんかと一緒にしてはいけません。 その土地その土地で感動してるわけじゃないから。東下りとは、昔男が自身の都至上主義&田舎否定を再確認する非常に屈折した暗い旅なのです。何かにつけて都を思い出し、都の価値基準に浸かったままで、田舎および田舎女に馴染んだり本気になったりすることもありません。「かきつばた」の歌だって、その土地を褒めてるわけじゃないんですよ。 都を懐かしんで、遠くに来たことを思ってるだけ。それを聞いた同行者も大泣きしてますし、同行者が大泣きするのは第三部にもあります。もちろん、歌を詠んだ昔男自身も、きっと同様な気分だったでしょう。

ところで、ぼくは、以前、刈谷市の隣の知立市にある「八橋かきつばた園」(庭園自体はずっと後の時代のもの)で地元の人たちに伊勢の講演をしたことがあるのですが、その際、昔男の都至上主義&田舎否定もしっかり話しました。ちょうど「かきつばたまつり」の頃で、社交辞令上話さない方がいいかなとも思ったんですけど、しょうがないでしょ。 伊勢にそう書いてあるんだし、ぼくが伝えたいのは伊勢の世界なんだから。

おっと、今回はなんだかごくありきたりじゃないですか。スミマセン。 知的に遊んでませんね。いつものようなネタをやらねば。

と言っても、ぼくは、東下り章段群ではあまり遊べる箇所は見つけられなかったんですよ。ここは、デーンとメジャー章段の9段があるんで、9段を中核とした成立論的な読みをしてる人もいます。 一方、マイナー章段の出来もまずまずで、それが結構カッチリした構成で並んでるもんだから、東下り章段群全体を通してもまあまあなことは言えてしまう。 上記の「自身の都至上主義&田舎否定を再確認する非常に屈折した暗い旅」なんて、別に気が利いてる解釈でもなんでもなく、きっと高校生でも言えますよ。 ただ普通につなげば、それなりのことは言えてしまいます。だから、ぼくにとっては魅力が乏しいところです。 第1回の「伊勢物語は組立式ブロック」で述べたとおり、伊勢は組立式ブロックにたとえられますが、誰にでも簡単に組み立てられそうな組立式ブロックでは、 前頭葉を直撃するような知的感動は得られない。第2回でカンピョウ巻きにたとえたマイナー章段のように、 手間と工夫を必要とすることもないから、ファイトも湧いてこない。

ただ、新見ということなら、研究者のなかに、ちょっとちがうことを言う人たちはいます。東下り章段群の終わりにくる14段や15段をとりあげ、実は昔男は田舎女とも共感し合ってて田舎否定してないんだ、なんて言ったり、15段においては昔男の内面がヒナビだったんだ、なんて言ったり。 でも、まず、昔男の都至上主義&田舎否定とどう折り合いをつけるのか疑問です。それに、昔男が相手の選択を誤ったというかたちにしとかないと、次回の第8回で述べる試行錯誤ひいては原点回帰の円環性が言えません。さらに、15段で問題になる内面が田舎女のものでかつ否定されるものでなければ、後述する内面/外面論も言えません。ぼくには、せっかくのつながりが断たれてしまってもったいない限り、と思えるんですね。

やっぱり、ぼくは、つながりを保てるようなかたちで新見を述べたい。長らくお待たせしました。一つだけ新見をお見せしましょう。

15段には、何の取柄もない田舎男の妻になっている女が登場します。田舎女ではありますが、不思議と魅力的に見えます。直前の14段では、あまりにヒナビた田舎女に接し、帰京宣言した昔男。10・12段の女たちも含め、田舎女に本気になれないのが昔男のはずなのに、今度ばかりはちょっと様子がちがいます。不思議と魅力的に見える女がいるとなれば、帰京宣言も一旦中止。女に、あなたの「心の奥」を見たい、と詠み掛けます。 第3回では、1〜2段の内面のすぐれた女たち/3〜6段の外面のすぐれたお姫様、といった対照性を 述べましたね。前回の第6回では、外面のすぐれたお姫様なんて結局不本意ながら惚れちゃった相手にすぎない、と読みました。 ならば、今度の15段では、昔男は内面にこだわるんじゃないかな。たぶん。だって、学習したはずなんだから。けれども、15段の最後は、そんな田舎女の内面=「さがなきえびす心」を見ても無駄さ、という語り手のコメントで締め括られます。やはり田舎女じゃ所詮ダメで、きっと昔男も落胆・侮蔑 したものと推測できます。要するに、ぼくの読みは、これまでの内面/外面論をしぶとく引っ張ってくる読みなんですよ。

もう一つ、オマケ。内面/外面について明記してあるのは、1〜2段では2段、3〜6段では6段、7〜15段では15段。わかりますか。内面/外面論は、各章段群の締め括りに明記されるんですねぇ。面白いでしょ。

なお、この構成が最終的編作者の計算かどうかは不問。ぼくだってやっと見つけたわけで、最終的編作者に教えてもらったわけじゃないんだから。 最終的編作者の計算か、なんてわかんないですよ。大事なのは、読者各々がどう遊べたかどうか、ってことじゃないでしょうかね。

以上がぼくの新見。7〜15段では、かろうじてこれくらいです。


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目次
はじめに
第1回 第2回 第3回 第4回
第5回 第6回 第7回 第8回
第9回 第10回 第11回 第12回
第13回 第14回 第15回 最終回
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