伊勢物語で遊ぼう第13回

細かな言葉にも味がある


ぼくがこれまでやってきたのは、章段どうしのつながりがより深く広くなるような読みばかりで、他章段とのつながりを意識したものが殆どでした。 今回は、趣向を変えて、一章段内の細かな言葉にこだわる読みを行ないます。広がりだけを意識して足元の確認をおろそかにしてはいけませんからね。

筒井筒の段として有名な23段は、かなりカッチリした構成になっています。 それが最終的編集者の計算かどうかは、ぼくは問いません。でも、ここなんかは計算してそうです。 それほどカッチリしてるんですよ。

前々回の第11回で述べたとおり、 23段には、準都人あるいはミヤビの有資格者である大和の女と生来の田舎人である河内の女の間で、ミヤビ/ヒナビの対照性が認められました。その対照性を、 今回は、細かな言葉レベルで裏づけてみましょう。

まず、前回の第12回で見た大和の女の化粧と、その対応箇所について。第一・二部に出てくる彼女が「いとよう化粧」していたのに対し、第三部に出てくる河内の女は「はじめこそ心憎くもつく」る。 大和の女の化粧には、 昔男に見せて愛をとり戻そうとする実利目的が認められませんでした。 対する河内の女の「つく」るには、化粧も含め、全体的にうわべをとりつくろうニュアンスが認められます。昔男の愛を得ようとする実利目的があり、加えて、偽りもある、ってこと。要するに、 「化粧」とか「つく」るとかいった似たような行為あげ、言葉を微妙に使い分けて比較対照してるわけです(この対照性から考えても、第12回で見た、大和の女の化粧に実利目的を読む招魂祈願説には、従えません)。 23段って、緻密でしょ。

昔男のいる方角を見る行為についても、対応箇所があります。大和の女の「うち眺めて」に対し、 河内の女は「見やりて」。「うち眺」むは、意気消沈してぼんやり眺める行為で、見るというより、視線を漂わす。浮気しに行く昔男の山越えを案じる独詠歌とともに、その方角を、露骨な感情表出にならない程度の悲しみをまといつつ眺めるんです。これ、もろ演歌でしょ。対する河内の女は、首を長くして待ってます、という歌意どおり、昔男のいる方角を「男恋し」と望み見ます。ついでに言うと、「見や」るがもろ見る行為であるだけでなく、「見」てると歌でも詠んでいるし、歌の後でも外を「見」ている。つまり、求める視線、ひいては、求める愛と言えるんですねぇ。大和の女の方は、求めない視線で、昔男を案じる歌からは与える愛=無視の愛が認められますから、ここも、同じ視線関係の言葉でありながら、言葉の微妙な使い分けでニュアンスを変え、ひいては、昔男に対する愛の質的相違とも連動させてるわけです。

さっき23段を緻密だって言いましたけど、そんな仕掛けが二度までもあるんですよ。もう本当に緻密、って言うほかないです。
実は、23段は、由緒正しい章段ではありません。 おそらく、原話は民間伝承でしょう。 でも、伊勢物語に入ってる23段は、これだけカッチリした構成で、緻密です。だから、どんな章段のどんな細かな言葉に対しても、細心の注意を払って読みましょう。第12回同様、キッチリ一つの答に決めるべき箇所なんだし。

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目次
はじめに
第1回 第2回 第3回 第4回
第5回 第6回 第7回 第8回
第9回 第10回 第11回 第12回
第13回 第14回 第15回 最終回
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